1961年生まれの私、気がつけば、まもなく62歳です。体力は日に日に衰えていきますが、頭の中身は進歩なく幼稚なまま、還暦超えた自覚も無し。「トシ取ったなあ」と思うのは、若い、若いと思っていた知人が40歳過ぎてたり、昔から知っている人が亡くなったとき。最近の有名人では、高橋ユキヒロさん、坂本龍一さんが立て続けに亡くなりました。YMO、細野晴臣さんおひとりになりました。
今月またおひとり、私が中学、高校生時代死ぬほど憧れた方が他界されました。
LOVE FMのHPサイトに掲載された訃報を引用します。
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ラジオDJ 松井伸一さんが2023年4月5日 永眠いたしました(享年84歳)
これまで松井さんの番組を応援してくださったリスナーのみなさま 関係者のみなさま ここに生前のご厚誼 に深く感謝するとともに謹んでお知らせいたします
葬儀は近親の方のみで執り行われますことをご報告いたします
ご香典 ご弔電などのお気遣いは辞退させていただくとのことです
2023年4月6日
ラブエフエム国際放送株式会社
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少し遅れて、9日の日曜日に知りました。昨年の後半以降番組に出演されているとき、声の調子が良くなく、再入院されたとも聞いていたので、「あぁ、ついに・・・」とも受け止めましたが、復帰への意欲も示されていただけに、残念でなりません。
絵に描いたようなラジオDJ
松井伸一さんのことをご存知ない方もいらっしゃることでしょう。私が知る限りの松井さん像を書かせていただきます。
訃報にある肩書、「ラジオDJ」を絵に描いたような方でした。現在82歳の小林克也さんを上回る「現役最高齢のラジオDJ」でもあったはずです。情報の少ない田舎で、中学、高校生だった私は、ラジオから聴こえる松井さんの温かみのある落ち着いた声と中身が濃くわかりやすい音楽の話にかじりついてました。松井さんはKBC九州朝日放送の局アナとして、ラジオ中心に活躍されていましたが、ある日の夕方、テレビでニュースを見ていたら、ネームプレートに「松井伸一」とありました。突然の松井さんの登場に、「あの松井さんだ」と、ひとり盛り上がったものです。また、朝早い時間のラジオの帯番組にも出演されていたので、ラジカセのタイマーを目覚ましにしてありがたいお声を聴き、登校前の憂鬱な気持ちを奮い立たせました。
無名だったアメリカのバンド、チープ・トリックに可能性を感じた松井さんが、積極的に紹介、繰り返し曲をかけたことで、日本から火がつき、やがて米英での成功にもつながったという話は、松井ファンの誇りです。
その後、出身地・小倉の放送局、CROSS FMの立ち上げに関わられた後、生涯一DJ的立ち位置でLOVE FMに番組を持ち、とくに最後の番組となった「STREET NOIZ」には、亡くなる直前まで出演されました。
なつかしの「ソニー・スタジオメイツ」
私が松井伸一さんのラジオを聴き始めたのは今から48年前、中学2年の時でした。今年と同じうさぎ年だから、松井さんは36歳の年男だったわけです。
友だちの影響で“英語のはやり歌”を聴き始めた私は、家にステレオが無く、音楽はもっぱらラジオとカセットで聴いていました。野球中継以外のラジオ入門は、「オールナイトニッポン」の笑福亭鶴光師匠でしたので、AMでは、ニッポン放送の番組も流すKBC派でした。平日の夜は、9時40分から「欽ちゃんのドンといってみよう(欽ドン※テレビの欽ドンとは別もの)」、50分から松井さんの「ソニー・スタジオメイツ」、10時から「日立ミュージックイン・ハイフォニック」を一通り聴くのが日課でした。一応教科書を広げての「ながら聴取」でしたが、勉強は頭に入らず、成績は下がるばかり。ラジオの魔力には勝てません。
松井さんを知った「スタジオメイツ」にはどっぷりハマりました。リスナーがカセットに吹き込んできた3、4分の作品(ドラマ、コントなど)がメインの10分弱の番組です。腹を抱えて笑うような傑作が時々あり、心底感心した松井さんの「これ、おっかしいよねえ」の声は、今も耳に残ります。面白過ぎて何度も録音を聴き返したからです。私も負けじと、家にあったオープンリールテープレコーダーとカセットを駆使、多重録音で苦心して作ったカセットを送り、採用を期待しましたが、残念ながらボツでした。
作品をはさんで最初と最後にかかる曲は、ビリー・ジョエル、エアロ・スミス、ミッシェル・ポルナレフ、ジャニス・イアンなどが多かったかな。ソニー提供なので、CBSソニーから発売のレコードだけです。その大人の事情が最初わからなくて、ウイングスの「ヴィーナス&マース」とかリクエストしていました。東芝EMIですから、かかるわけありません。
CMも、もちろん松井さんが読まれていて、「SONYスタジオ1980」という重厚なデザインのかっこいいラジカセの紹介にワクワクしました。確か49,800円と超高額でしたが、どうしても欲しくなり、中3のとき、思い切って買いました。まんまと松井さんの術中です。とは言え、エアチェック(ラジオでかかる曲を録音すること)したり、ミキシングの真似ごとしたりと、何千時間も使い倒したので、悔いなく、十分モトも取りました。
垢抜けた洋楽の師匠
スタジオメイツで“夜の松井さん”と耳なじみになったわけですが、日曜の朝にもレギュラーを持たれていることに気づきました。10時から1時間の「今週のポピュラーベスト10」という番組です。1970年代は、“洋楽黄金時代”で、あちこちのラジオ局で洋楽番組やってました。当時洋楽とはあまり言わず、外国のヒット曲は「ポピュラー」とか「ポップス」と呼ばれてました。余談ですが、「邦楽」はというと、長唄みたいな日本古来の曲を指して、演歌でもフォークでも西城秀樹でも、はやり歌はテレビやラジオでは「歌謡曲」ひとくくりでした。しばらくすると、「ニューミュージック」という言葉が出てきて、それもやがて「J-POP」に取って代わられます。
“日曜朝の松井さん”の番組は最新のポピュラー音楽の貴重な情報源でした。ネットでなんでも調べられる今と違って、外タレミュージシャンの動向を知る手段は限られていたのです。「ミュージックライフ」などの雑誌(けっこう高かった)かレコードの解説ってとこですが、ステレオを持たない私はレコード買いません。そんな事情を持つ私に、松井さんはじめラジオDJのみなさんは、新鮮な音楽ネタをジャンジャン紹介してくれたのです。
ラジオのチューニングダイヤルをナノ単位で回して、全国、ローカル問わずラジオの電波を捕まえ、あちこちの番組聴きましたが、洋楽DJとしての松井さんの実力は抜きん出ていた、と今でも思います。多くの資料に目を通して地道に収集したであろう、ミュージシャンと作品に関する豊富な知識、それをひけらかさない謙虚な姿勢、よどみなくわかりやすく伝えるアナウンス技術、コード進行とかリフとかのマニアックな音楽理論に入り込まないところも親しみやすかった。
先に書いたチープ・トリックの一件のように好きなものは好きと推しますが、押しつけがましくならないバランス感覚も絶妙。「垢抜けてる」とか「スマート」という褒め言葉は松井さんのためにあります。洋楽鑑賞の大先生でした。
曲・ミュージシャンへの愛情
松井さんがリンダ・ロンシュタット好きだったことは、後年のラジオで知りました。チープ・トリックの話とは若干矛盾しますが、昔はあまりミュージシャンの好き嫌いを前面に出してなかったように記憶します。とくに、「嫌い」を言うことはなく、あらゆる曲に愛情を持って接していた印象です。
洋楽に関して、恩師を他に二人挙げるとしたら、小林克也さんと渋谷陽一さんですが、小林さんはともかく、チープ・トリック躍進のもう一方の立役者である渋谷さんは、好き嫌いの「毒」が強過ぎ、引きずられて「音楽の偏食」に陥ってしまいかねない危険人物でもありました。
日曜朝の番組でよく覚えているのは、長く1位を続けた曲です。往年の有名歌手、パット・ブーンの娘さんのデビー・ブーンのデビュー曲「恋するデビー」(原題「ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ」)は、ほんとにずーっと首位をキープしていました。
ベイ・シティ・ローラーズも、ベスト10の常連でした。日本で多分一番有名な彼らの曲「サタデー・ナイト」を、毎週「サンデー・モーニング」に聴くのです。人気絶頂の彼らが福岡に来たときは、松井さんがインタビューしてました。
なぜか懐かしい曲が、マンフレッド・マンズ・アース・バンドの「光に目もくらみ」(原題「ブランデッド・バイ・ザライト」)です。日本ではそれほどヒットしてないと思いますが、ウィキで調べると、アメリカではナンバーワンヒットです。イントロのキーボードのまばゆいばかりのキラキラ感に魅了されました。よく晴れた日曜の明るさにピッタリでしたが、出かけることもなく、ラジオ漬けの私なのでした。
ブルース・スプリングスティーンのカバー曲だということは、ずっと後に知りましたが、同じ曲とは思えないくらい感じは違ってました。スプリングスティーン版は、かなりワイルドです。
この番組で、松井さんの名セリフがありました。4人組の10CCから2人が抜けるという話のとき、さらっと「んー、5CCになっちゃうんですかねえ」と。自然体で気の利いたジョークでした。
今思い出しましたが、小倉東映会館という商業ビルに入っていたブティックが番組の提供者の一つで、そのCMにすごく都会の香りを感じて、小倉というまちに行ってみたくなりました。この頃の私には、福岡・博多より小倉の方がおしゃれに思えてました。数年前、小倉で勤務しましたが、その東映会館も既になくなっていました。
そんなふうに、松井さんに熱中していた私ですが、好んで外国の曲を聴く人はクラスにひとりいるかいないかの状況。松井さんの話をする相手がほぼいないことが無念でした。今ならば、SNSの「松井伸一さんを語る会」にでも参加するところですが。
本物の松井さんに対面
就職した頃、会社の大先輩に松井さんの小倉高校の同級生がいました。気安く「松井が、松井が」と話すので、すごくうらやましく思ったものです。
あるとき、家族からコンサートのチケットを取ってくれないかと頼まれました。新米の自分にはツテがなかったので、興行関係に顔の利くその先輩に相談しました。力のある先輩はなんなく話をつけてくれました。
「お金とチケットの引き取りはどうしたら良いですか?」とたずねると、何と「KBCの松井のところにあるから、行きなさい」というではありませんか。そのコンサートはKBC主催だったのです。喜び勇んで私はその日を待ちました。長浜のKBCに走り、受付でお呼びいただき、ほどなくロビーに現れた松井伸一さんは、期待通りのしゃれ者でさっそうとしてます。「ラジオよく聴いてました」と言うのが精一杯でしたが、本物の松井さんと言葉を交わせた貴重な機会でした。
松井塾長に“再会”
その後は仕事や飲みにかまけてラジオを聴く機会が減り、休日に車の中で聴くくらいになってしまい、しばらく松井伸一ワールドから遠ざかりました。
そして、30年前の1993年にCROSS FMが開局した際、風の便りに、出資者のKBCから松井さんが出向、管理職の立場で行かれたと耳にし、「DJはもうされてないんだあ」とぼんやり考えました。
KBC完全退職後、松井さんがCROSS FMでDJを再開されたことも知りませんでしたが、それからさらに時が経ってから、LOVE FMで新たなレギュラー番組を持たれていると、教えてくれる人がいました。金曜夜の「STREET NOIZ」という二時間番組。忘れかけていた“松井塾門下生”の血が騒ぎ、さっそく拝聴です。「おおっ」。昔のまんまの松井伸一がひたすら話し、曲をかけているではありませんか。一瞬で、40年前のラジオ小僧に戻りました。
ほどなく私は東京に転勤したのですが、「radiko」という文明の利器が発明されてました。どこにいても、聴き逃しても、スマホやパソコンで一週間好きな番組を追っかけることができます。昔は、カセットテープが擦り切れるまで何度も番組を上書き録音してましたが、そんな手間も要らず、雑音のないSTREET NOIZが聴けます。好奇心旺盛な松井さんは最新の音楽にも通じておられましたが、それ以上に、私がなじんだ60年代から80年代の曲も沢山かかるので、同年代の洋楽ファンにはこたえられないプログラムだったはずです。
日曜の朝も再び
松井さん、再び日曜の朝にもDJ始められてました。やはりLOVE FMの「On Sundays」という番組で、こちらは山本真理子さんとお二人での進行ですが、10時から正午まで二時間たっぷり。ラジオに賭ける松井さんの意気込みが感じられました。
3年間の転勤生活を終え、福岡に戻ってからは、On Sundays、ちょいちょいリアルタイムで聴きました。中学以来の投稿もしました。投稿がハガキだった頃は、読まれるまで何日かかかり、いつ放送されるか、そもそもボツかもしれないし、と成果を確かめるのに難儀しましたが、今は当日のお題(テーマ)をいただいたら、即メールでメッセージやリクエストを送ることができ、オンエア中に結果がわかります。
「カレー」がテーマの回がありました。無類のカレー好きとして、「今日こそなんとか読まれたい」と、カレーにまつわる曲をあれこれ考えました。遠藤賢司さんの「カレーライス」という曲があることは知ってましたが、聴いたことないので、リクエストするのは気がひけます。ふと「イエロースプーン」という宅配カレー屋さんのことを思い出し、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「ビハインド・ザ・マスク」をリクエストしたら、松井さん、笑いながらかけてくださいました。やった、報われました。
松井さんと山本さんは息の合った名コンビだとは思っていましたが、松井さんが体調を崩されて以降のSTREET NOIZ、代役の山本真理子さんが、療養中の松井さんとこまめにコミュニケーションを取られ、不在であるはずの松井さんの存在感を番組に反映させていることに感心してました。
不思議なご縁
転勤中の東京では、かつて国技館があった蔵前という所に住んでいました。近所の「いちがいもん」という居酒屋に通い、富山出身の水落勝平さんという大将と仲良くなりました。オリコンの社員として福岡にいた頃、松井伸一さん擁するKBCチームと野球対戦してたという話を聞いてびっくり。仕事でお付き合いがあったそうです。松井さんが”ツンツン”とあだ名で呼んでいた水落さんによると、「松井さん、野球大好きでピッチャーやってたよ」とのこと。私にとっては、「松井さん=音楽人」ですが、スポーツマンでもあったようです。そういえば、ゴルフの中継でも鳴らしていた、という文章を読みました。アナウンサーとして万能じゃないですか。
あるとき、水落さんに、録音したSTREET NOIZを聴いてもらったら、「今の方が、声高くなってんじゃない?」と言われてました。そうなんでしょうか。昔の音源を聴いて確かめたいものです。
それにしても、全く関係ない場所で松井さんの話を聞くなんて、不思議なご縁です。
生前葬
松井さん75歳の年、「生前葬」が行われたと聞きました。地元出身の音楽プロデューサー、松尾潔さんなどそうそうたる顔ぶれが集まったようです。
きっと、お葬式というよりは、「松井さんを囲む有志の集い」みたいな楽しいイベントだったんでしょう。
私は生前葬には行ってませんが、同じ頃DJ生活50周年をお祝いして開かれた「松井さんを囲むリスナー懇親会」には縁あって参加させていただきました。RKBのDJだった井上サトルさんとのトークショー、局の垣根を超え、和気あいあいとした雰囲気で、心が和みました。
その頃、西日本新聞には、こんな広告も掲載されました。
あの時代、松井さんがいた幸運
最後にもう一度書きますが、私にとっての「洋楽黄金時代」は70年代です。50年代、60年代にプレスリーやビートルズなどの先駆者たちが撒いた種、育てた苗が、あちらこちらで花開いた結果だと思っています。
そんな時代、ポピュラー音楽の世界への案内人、松井伸一さんが手(耳?)の届く場所にいらしたことは幸運でした。松井さんも「良い時代に”ポピュラー”に出会い、伝えられて良かった」と満足されていることでしょう。