北九州に根ざして100年。次の100年への思いを探る、野村廣美氏インタビュー。【前編:チャレンジの源流】<PR>

2024年、100周年を迎える福岡ひびき信用金庫。
新人時代から独自の手法でその成長に貢献してきた野村廣美会長に、その半生とお客様との付き合い方の真髄を伺いました。
前編は、活発で、アイデアに満ちた<チャレンジの源流>を探ります。
そこに、目まぐるしい環境変化にも自在に対応するための、独自のスタイルが見えてきました。

八幡東区の本社でお話を伺った、福岡ひびき信用金庫 野村廣美会長
目次

生まれ故郷と、福岡ひびき信用金庫との不思議な縁

ご出身はどちらでいらっしゃるんですか?

ちょうどこの辺(福岡ひびき信用金庫本店:八幡東区尾倉2丁目付近)なんですよ。
生まれたところに就職するとは、本当に不思議な話でして。福岡ひびき信用金庫との縁は、生まれながらに始まっていたと感じますね。

戦後すぐに生を受けていらっしゃいますが、当時の町のことなど覚えていらっしゃいますか?

まったく覚えていません。
生まれは緑町と言って、今はない地名になるんです、今の西本町ですかね。
父親が公務員だったので、県内をあちこち転々としていて、この近くには、1歳くらいまでしかいなかったので、細かいことは覚えていません。

幼稚園までは4年ほど北九州にいましたが、小学校入学のタイミングで福岡に引っ越したんです。薬院に住んで、警固小学校に入学したんですが、1週間後には父の職場が百道になって、県の公社へ引っ越したんです。2年半近く、百道で暮らしました。

県内転々… 野生児ぶりが楽しい子ども時代

引っ越しが多かったようですが、どんな子ども時代を過ごされていましたか?

百道の公社は松林の中にあるんですけれども、弟と海岸で遊んだり、虫をとったり、とにかく外にいました。
小学2年の終わり頃から、北九州の則松小学校へ転校したのですが、そこでも外遊び… というよりはいたずらばかりしていましたね。金山川の水門を管理する人が使う舟で勝手に川上まで行ったり、池を泳いで山モモを食べに行ったり。そんなことが楽しくてね。

かなり活発な少年時代だったようですね

アイデアを駆使して遊ぶのが好きだったんですよ。雪が降れば竹を取りに行ってスキーやソリを作って、弟と遊んでいました。木の箱を作って、ロープで引っ張って乗れるような形にして弟を乗せたり、自分用のスキーも作ったりなんかして。
結構、手の込んだ遊びをしていましたよ。

そういうのも全部自分で考えて?

今ならYou Tubeとかを見ればいいんでしょうけど、私たちの時代にはありませんでした。
当時流通し始めたテレビから得る情報と、自分自身のアイデア次第でしたね。
例えば、弓矢や刀もいかようにもできちゃうんですよ。風呂の薪や石炭を燃やしながら、鉄の棒を火の中に入れて、叩いて、磨けば、切れ味のいい刀のできあがり。
できれば、やっぱり使いたくなっちゃうじゃないですか。そこで、近くの農家の野菜とかスイカとか切って、切れ具合を確かめることも。その都度、農家の人に見つかっては、母親が謝っていたことをよく覚えています。

小学校3年生ごろ(向かって右端が野村会長)。左端の弟とよく遊んでいた

遊びも部活も全力投球!の学生時代

中学校では、部活に入られていたんですか?

中学では柔道部と野球部に入りました。
柔道では、とにかく筋肉をつけようとして、畳を重ねてあげるなど、重量挙げみたいなことをしていました。野球は、100本ノックが辛かったですけど、今思えばそれも楽しかったですね。

中学校で一番思い出に残っている出来事はありますか

一番面白かったのは、島に行って遊んでいた頃ですね。私の当時の友人に海軍少尉の息子がいて、モールス信号や手旗信号を教えてもらっていたんです。高校進学時に学校は離れてしまいましたけど、その友人とは今でも付き合いがありますよ。

その後の高校ではどのように過ごされていたんですか?

九州国際大学附属高校に進学してからも、色々遊んで過ごしていましたね。
そんな中、高校2年生のときに、父が胃癌と診断されたんです。実際は癌ではなかったのですが、入院、手術という話にもなるわけで。そうなると、母が「お父さんは長くないかもしれないから、あなたたちを大学にやるために自分が何か手に職をつけたい」と言い出し、餅屋へ修行しに行くようになったんです。

お母様自ら手に職をつけ、お金を稼げたらと思うようになられたんですね。

そうなんです。そして、これが後の家業になるんですよね。

修行当時は、頑張り屋の母だったので、私自身も何かできたらいいなと、子どもながらに思っていました。なので、母はどう思っていたかは分かりませんが、春休み、夏休み、冬休みには毎日母の修行についていき、餅屋さんの仕事を一緒に覚えました。
そんな修行の日々を4年ほど過ごして、私が大学2年生のときに、母が馬場山で開業したんです。
開業してからは、私も手伝っていましたが、当時段谷産業に就職してからは、なかなか手伝えなくなってしまいましたね。

本社社屋のバックには北九州市のシンボル、皿倉山が

大手と家業と転職と。揺れる新人時代へ

段谷産業は、当時、日本一の住宅資材メーカーでしたよね?

はい。段谷産業は、毎年200人ほどの新卒人材を獲得するような大手メーカーでした。3月ごろから研修が始まり、4月に東京支社に赴任後、茨城の関東営業所に配属となりました。
当時は、茨城と千葉の材木屋さんを毎日ルートセールスしていました。月に一度、報告のために営業所に帰るんですが、それ以外は、安旅館に泊まってルートセールスが続くんです。
そんな生活を続けていると、今後の展望を考えるようになっていきました。家業もあるし、いずれは地元に帰りたいという思いもあって、区切りをつけて福岡に戻ってきたんです。

家業を継ぐ選択肢もあったと思いますが、福岡ひびき信用金庫に就職されたと。

継ぐ選択肢も確かにありました。しかし、まだ若いし、いろんな勉強もさせた方がいいという意見もあったようです。
親戚から、こういう信用金庫があるよと中途採用の話を受けて、福岡ひびき信用金庫に就職しました。

銀行の仕事は、集金や預金をしていただいて、資産を増やすことだと思っていました。
というのも、当時は、全国的に金余りの時代。貯金さえしてもらったら、預金でも貸し出しでも、その金利だけで十分だったんです。
今はもちろん、金利0.02%とかなので、そんなことあり得ない話なのですが、当時は預金で8.1%という定期預金があったくらいです。預金さえ集めておけば、融資は順調に増え、金融機関として十分に成り立っていましたね。

お客様に対して価値を提供できる存在だったということですね

はい。昭和40〜50年代の頃「定期積金で、まず100万円貯めませんか?」というキャッチフレーズをいいなと思って、それで1軒1軒くまなく回っていました。
【一丁目一番一号作戦】と銘打って、訪問していました。たとえば、引野1丁目の一番1号から全戸訪問、全戸取引を目指してやっていたんです。

苦しかった頃をどう乗り切ったか、野村廣美会長のお話にはヒントが満載

強い意志と独自の戦略で、斬り込み続けた渉外時代

その訪問は、信用金庫さん全体でやっていこうということだったんですか?

いえ、私個人の戦略ですね。
信用金庫を使っていただければきっと幸せになります、私がさせますという気持ちで、一軒一軒真摯に訪問する信用金庫の姿をお客様に見せていたという感じでしょうか。
そうやって、信頼を得て契約してくれたお客様の満期が来たら100万円貯まってて、「ありがとう」と言ってもらえるわけです。
お客様からいただく感謝の気持ちが嬉しくて、それが生きがいでした。

中途採用での入社後は、いわゆる順風満帆な日々だったのでしょうか。

いえ、最初は怒られることも多かったです。
半年間の決算日という大事な日に、入社4ヶ月で年次休暇を取ってしまったんです。絶対に休んではいけない日に、知らなかったとはいえ、結納をしていまして。当時の支店長には結納について伝えていたのですが、現場の主任はかなり怒っていて。
このことが原因かは分かりませんが、半年で異動になりましたね。

当時の同僚の方々は、ご結婚が早かったんですか?

結婚でいうと、大体5年10年勤めてからという人が多かったですね。なので、入社半年で結婚する奴なんているのかと、有名になりました。
そして、新婚旅行に1週間グアムに行って帰ってきたら、戻って最初のお客さんからまた怒られて。引き継ぎの際の伝達ミスで、「お前は本当に信用金庫の職員か?もう取引をやめる。支店長を連れてきなさい」とまで言われてしまったんです。

そういう失敗もあるなかで、中途採用の肩身の狭さを感じていて、どこに行っても「中途採用だから」と言われてしまっていたんです。それがもう悔しくて。
将来は餅屋か和菓子屋を多店舗展開してやろうという風に思ってもいましたから、「金融の勉強のため、とりあえず10年は我慢しよう」「絶対負けない、見返してやろう」と思いながら、一生懸命勉強していましたね。

それからは順風満帆に?

悔しい思いもしてきた分、おかげさまで若い頃は成績トップでした。
戦略を考えて試行錯誤して、結果を出す。その甲斐もあって、1年間続けて1位をとり続けたり、そういう思い出もあります。
ただ、それでも周りはずっと厳しかったですね。そういう反応も切磋琢磨しろということだと自分に言い聞かせて、頑張り続けました。渉外業務は16年続けましたが、年金とか定期、定期保険、融資などすべての項目で1位をとろうと、目標を立て、自分を奮い立たせていました。

認めてもらえないもどかしさを感じつつも、もがき、そして結果を出し続けられていたんですね。辛さはなかったのでしょうか。

徐々に周りからの反応が変わってきたのは感じていて、ご褒美として、研修旅行に同行させてもらえることもありました。
でも周りの反応以上に、自分のポリシーができたことが大きな変化だと思いますね。銀行にできないサービスを我々がやってるんだという自負ができてきたんです。目の前のお客さんと向き合い、「信用金庫と取引してよかった」と思ってもらうことが一番になりました。そうしてるうちに、徐々にですけど、周りも認めてくれたというか、何も言わなくなってきて、仕事が楽しくなってきたんです。

周りに認めてもらえて、仕事が楽しい。それが何よりですよね。

10年で辞めようと思っていた仕事でしたが、お客様からも感謝されて、褒められてね、辞められなくなったわけですよ。
八幡西区に行けば、そこにはもう多種多様な方がいるんです。職種もいろいろで、気質もいろいろ。
個人事業主から大企業の経営者までいらっしゃる。そんな中で、40歳くらいの頃、ある企業の社長と大喧嘩したんです。私としては社長が望むビジョンを実現するために尽くしているにもかかわらず、金利を下げろと言われて、頭に血が昇ってしまったのでしょう。「どこの銀行がここまでしますか!」と反論してしまいました。
大喧嘩をしたものの、その社長とは、何度も飲みに行くような仲になり、最終的には「うちの跡継ぎになってくれ」と言われるほど信頼関係を築けました。もう40くらいになる頃の話です。

入庫16〜17年目の支店で。お客様の信頼を得てひびしんに腰を据えるように

<中編に続く>
◾️profile:野村廣美/1949年生74歳。福岡大学経済学部卒。1973年10月福岡ひびき信用金庫入社。赴任した町で狭い路地まで歩き、「路を知り、人を知り、町を知る」を徹底。2012年から理事長職、2020年より現会長職に就任。同年 旭日雙光章受賞

提供:ラシン

著者情報

福岡のベンチャー企業「ラシン株式会社」が運営しています。福岡の中小企業、個人事業主さんの紹介を行なっています。

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