出産は大変な体験ですが、赤ちゃん側の思いもわかると、ほっこり体験に変わります。実際に私も36時間を超える難産を経験しましたが、息子が話した胎内記憶を聞いて、痛くてたまらなかった思い出が心温まる思い出へと変化したのです。
36時間を超える難産を経験!
私の息子は成長がとても早かったようで、妊婦健診のたびに
「出産が遅れると難産になるかもしれない」と担当医にいわれていました。しかし、そんなビッグベイビーであるにもかかわらず、出産予定日を過ぎても全く産まれる兆しがありません。そのため、陣痛促進剤を用いて強制的に分娩を行うことになったのです。
促進剤1日目。朝から薬を投与されたものの子宮口が広がるような本格的な陣痛にはつながらず…。しかし陣痛は夜通し続いたので、心身は疲弊する一方でした。
促進剤2日目は、最高値の投与量からスタート。その甲斐もあって、これまで経験したことのない“ダンプトラックにお腹を通過されるような痛み”が始まり、昼には子宮口が全開に。
「遅くても夕方までには産まれるでしょう」という担当医の声で、分娩台に移動することになりしました。
ついに生まれる
しかし、時刻は18時半…。30時間以上も飲まず食わず、寝ずの私には体力が残っていません。そんな私を見た担当医は
「吸引分娩で無理なら帝王切開に切り替えよう」と一言。緊張感が高まる中、担当医・助産師・私で再度力を合わせます。
担当医は吸引カップで吸引を。助産師は私のお腹にまたがり圧迫を。私も残っている体力を全て使い、全力でいきみました。
するとついに「おぎゃー」の声が!
あまりにもひどい難産だったので、喜びや幸せをかみしめる余裕はありませんでしたが、息子が無事に産まれたとわかり、とても安心しました。
ただ、安堵する私の横で、担当医と助産師はバタバタしていました。後に知らされたことですが、出産の際に大量出血をしたようで、大きな病院に緊急搬送するべきか否かで慌てていたのだそうです。
胎内記憶を話す2歳になった息子
月日は流れ、息子が2歳になったある日のこと。公園でお散歩をしていると、私と息子の目の前をベビーカーに乗った赤ちゃんが横切りました。
「かわいいね」とつぶやく私とは違い、息子は深刻な表情に。そして、まさかの言葉が次々と発せられたのです。
「いたくさせてごめんね」
「おなかの中はあたたかくて、きもちがよかった」
「おなかから出たくなくて、わざとじっとしていた」
「ママのいたそうな声がたくさんきこえた」
「ぎゅーっとなって、僕もすごくいたかった」
「でもママがかわいそうだから出ることにした」
など、あの日の思いを詳細に語ったのです! 息子が途中で話しをやめないように、私は息子を見てうなずくだけにしていました。息子は大切な記憶を思い出しているかのように、丁寧に言葉を絞りだしている様子。そして胎内記憶を話し終えると、許しを請うかのような表情で、私の顔を覗き込みました。
出産本にはよく「赤ちゃんも大変なのでママも頑張ろう」と書いてありますが、どこか信じていなかった私。でも、今回の体験で「あの日は2人で頑張っていたんだ」と実感ができました。私は嬉しさと愛しさで心がいっぱいになり、思わず息子をぎゅっと抱きしめていました。
育児ノイローゼを乗り切るきっかけに
実は、この胎内記憶を聞いた時期はイヤイヤ期の真っ只中でした。息子は全てに「イヤだ!」と反抗し、駄々をこねる状態だったため、子育ての大変さを感じ、私は笑うことができなくなっていました。
育児ノイローゼになりかけていた私にとって、この体験は育児ノイローゼを乗り切るきっかけになりました。「私とあの痛みをともに乗り越えた子」「これからも苦楽を共にする相棒」そんな思いで心が満たされて、目の前の不満も、将来に感じる不安も乗り越えられる気がしたのです。
後日談となりますが、幼稚園に入園する頃には胎内記憶が消えてしまった息子。今では何の記憶もない、普通の12歳男児に成長しています。今もとてものんびり屋さんなので、「出産の時もこんな風にのんびりしていたのだろうな」と感じることがあります。
やはり、性格というものは産まれる前から決まっているのかもしれませんね!
(ファンファン福岡公式ライター / 綿毛たんぽぽ)