金融システムの番人から、地域のお客様の支援者へ。組織の総力と人に寄り添う心で、時代の節目に立ち向かう、安部文仁氏インタビュー<PR>

徹夜も厭わない多忙さや、2〜3年おきの部署移動など、金融システムの番人としての激務も経験。
確かな経験があるにも関わらず、民間企業には頭が上がらないと頭を垂れるのは、しんきんさんの愛称で地域に根ざしてきた福岡信用金庫の理事長、安部文仁氏。
業界揃い踏みの100年時代を前に、その胸中に迫ってみました。

目次

準硬式野球に明け暮れた大学時代が基礎

そもそもお生まれはどちらでいらっしゃるんですか?

安部:大分です。父が九州電力に勤めていて、大分県内の発電所を転々としていましたので、小さい頃は家族一緒に転居していました。
私が中学に入るころ、父は単身赴任をするようになり、それ以降は父の実家に母と姉と3人で暮らす形に。大学も大分からほど近い熊本大学に進学しました。

野球がお好きだったと伺っています

安部:中学からやっていましたからね。大学でも四六時中、野球漬けの毎日でした。

私がやっていたのは準硬式野球といって、使用球の見た目は軟式ボールなんです。外はゴムで、中は硬球。そういうボールを準硬式というんですが、部員が20数名でしたので、全員玉拾い、全員レギュラーみたいなチーム。ピッチャー以外は、なんでもやらされましたね。

毎日練習をされていたのですか?

安部:月曜は休みでしたけど、どんなに練習がキツくても、大学の講義は1日も休まなかったのが自慢です。1日休むとずるずるとなってしまいそうで嫌だったんですよ。
ただ、それ以外は毎日、野球中心の生活でした。

厳しくも楽しい準硬式野球で培った絆が今も支えに

私の性格やキャラクターは、ほぼその生活の中で形成されていったと思います。
準硬式野球部は良い意味での縦社会でしたけど、今でも人間関係は続いています。定期的にOB会などをやっては、当時の話で盛り上がりますね。人脈も性格も、私の基礎となっています。

金融システムの番人、激務の大蔵省時代

就職は大蔵省と公務員、どちらを先に志望されていたんですか?

安部:まず9月か10月くらいに国家公務員試験を受けて合格していました。
民間企業も受けましたけど、そこは全国展開の企業でして。長男だから、いつかは大分に帰るかもしれないと考えて、当時の大蔵省(現財務省)の地方採用というのを選択しました。
大蔵省の地方出先機関は3つあるんです。国税局、税関、そして私が30数年在籍した財務局。それぞれ地方採用の試験制度がありまして、よくわからないけど就職はしないと、という感じでした。

最初はどこに配属されたのですか?

安部:はじめは金融機関の業況調査や監督をする部署に配属されました。福岡県内の各銀行の預金、融資額を毎月計算して、先月末はトータルでこれくらいになった、どういう要因があって増えた減ったみたいなことを報告して、それを上司が記者発表するんです。そのためのデータ作りに関する業務を2年3ヶ月していました
それから小倉出張所で国有財産の管理処分業務を3年。その後、東京にある国の予算を作成する部署(主計局)で2年働きました。

福岡の財務局の管轄区域は?

安部:管轄区域は福岡、佐賀、長崎の北部九州3県なんですが、希望すれば東京の大蔵省にも行けるシステムがあったので、先輩に勧められて行きました。
「人や情報を学んでこい」と。若かったので、刺激を求めたのもあるかもしれません。

学生時代は仕事へのイメージが湧かず、地元に残れる仕事を選んだ

東京ではどんな業務をされていたのですか?

安部:国の予算を作る部署(主計局)のいわゆる下っ端です。
8月から予算編成作業が始まり、国会に通って予算が成立する2月3月くらいまでは、仕事が終わるのが毎日夜中の2時3時。地下鉄もなく、先輩と乗り合わせてタクシーで帰るんです。当時の私は独身でしたので、それ程ではありませんでしたが、妻帯者は気の毒でしたね。

上司の主計官たちは頭のいい人ばかり。私は理論武装が疎いもので、ずっと走り回っていて、肉体労働みたいな2年間でした。1人でやると辛い業務でしょうけど、全員での業務ですのでそういう意味では、今でもお付き合いさせていただいている方もいるくらい密度の濃い時間を過ごせたのではないかと思います。

残ったものは人と、情報と、新しい道

東京勤務後はどうされていたのですか?

安部:東京から戻ってからは、経済調査課で北部九州の地域経済の分析をはじめ、証券会社や貸金業者、あと労働金庫とかの監督業務など1年目と似た仕事を係長として2、3年おきに異動しながらやっていました。
一度、面白くも辛い仕事も経験したんです。財務局長の秘書係…いわゆる鞄持ちなんですけど、これがすごく記憶に残っています。局長だった方は、大変聡明で思考のスピードが速いので、私には何を考えているかわからないんです。毎日怒鳴られながら、たまに「お?今日は怒られなかった!」とか独り言を言っている、ほぼ付き人なんですけどね。
でも、そうやって、東京でも九州でも、人や組織、情報の掴み方を学んでいったと思いますね。

面白い人との出会いや思い出には思わず笑みが溢れる

金融機関関連の業務には戻れたのでしょうか?

安部:秘書係の後、金融機関の検査官を10年ほど経験しました。金融機関の現場に行って、検査する業務です。当時は通告なしに検査命令書を持って、検査に行っていましたから、金融機関には相当負担をかけていたでしょうねえ。今となればよく分かりますが。

その後はどういう経緯で、福岡信用金庫で勤務することになったのですか?

安部:検査官を10年やって、その後は長崎・広島で似たような業務を管理職の立場でやって、平成25年の8月から福岡信金へ来ました。当時の理事長から「お前は金融検査を長くやっているから、うちに来ないか」と声をかけてもらったのがきっかけです。

最初はやっぱり監査部門から始まりました。営業店を回って、事務処理状況や、お客様への対応など、前職と似た仕事をやりました。58歳あたりで常務になりました。そして、6年前、当時の理事長が会長になるタイミングで現職につきました。

前職やこれまでのご経歴の中で、これは生かされたというようなことはありますか?

安部:土俵がまったく違いますから、前職の経験のここが強みみたいなことは言えません。民間企業はやっぱり大変です。
ただ、色々な部署を渡り歩いてきたり、準硬式野球部の人間関係をはじめ、良い意味での縦社会を歩んできたので、人を知ること、情報の掴み方は私なりに身についていると思います。

各地を転々としていた大蔵省時代(右)。この頃の人脈もまた糧に

100年時代を迎える福岡信用金庫の総力で

まもなく100周年を迎えられますね

安部:来年の秋で100周年ですね。
100周年というのは70、80、90周年とは違います。地域の皆さまのおかげで迎えられるわけですから、そんな地域の皆さまや先輩、先人に対する感謝、その思いをさまざまな形で示しながら、次の100年への新しいスタートを切っていきたいという思いはあります。

だからといって、トップダウン的にやるのは違うかなと思っていて、若いメンバーにも参画してもらって、実行委員会を発足し進めています。

以前、ひびき信用金庫の野村会長にも100周年インタビューをさせていただきました

安部:野村会長さんはとてもバイタリティのある方ですよね。若くから営業をされてきて、身をもって大変さを知ってらっしゃる。そういう意味では、私は到底敵わないところがあると思っています。だからといって、諦めるわけにはいかないので、私なりに頑張っているところです。

信用金庫業界では100周年が続きますね

九州北部では、一昨年が飯塚信金さん、今年が福岡ひびき信金さん、筑後信金さん、来年が伊万里信金さんと私共福岡信金です。信用金庫自体、まだまだ存在感が大きくないので、もっと地域に知られて、困ったことがあったら「相談すれば助けてくれる」と思われるような存在になりたいですね。

お金を融資するだけでなく、その前に、何か売り上げが伸びるノウハウや情報、そういう事業展開するためのアドバイスや支援。そんなものを信用金庫が持っているかもしれないから「相談に行こう」となれるような存在を目指したいです。
お客さんの喜びイコール我々の喜びですので、そういうことが我々自身のやりがいや生きがいに繋がっていくと思うんですよね。

 福岡信用金庫の総力で、次の100年というものを牽引していきたいです。

信用金庫業界の発展を信じ、熱く思いを語られる安部理事長

寄り添う姿勢を心に、自分なりの“しんきん”を

一個人としての今後についてお聞かせいただきたいです

安部:68歳になり、孫もいますけれど、家族のことを考える余裕はまだないですね。日々考えるのはやはり組織のことです。
いつもスマートフォンをそばに置いて、お客様支援と職員のモチベーションアップをどうすれば実現できるか考えながら忘れないようにメモしてます。

イベントで拝見した際にも職員との距離が近いなぁと感じていました

安部:職員に「お客様の立場や気持ちに寄り添おう」と言っているんです。
一方で私は、職員にも寄り添わなければいけません。例えば、商店街のお祭りの手伝いを頑張ってくれている職員に寄り添い、同じ心持ちで進む。少しでも距離を縮めて、お互いの考えを理解することで組織が同じ方向を向くことにつながるんじゃないかと。

口で言うほど、うまくは実行できないのですが、営業を知らない私なりの寄り添い方です。職員とその家族も含めて、組織を良い方向に持っていくのが私の責任ですからね。

元気都市と言われる福岡は、中小企業も多いですが?

安部:お手伝いさせていただいているほとんどが、中小企業さんです。

他所の方は、福岡市は活力があるようにおっしゃいますが、まだまだ元気を取り戻せていないお客様も多数いらっしゃいます。そういうところをどう支えていくのかと向き合うことが、我々のやりがいにつながっていくと思います。

地元への思いは強い。100周年を前に、プレッシャーも

「会社が倒産しそうになって苦しい時に力を貸してくれたから乗り越えられた。そして今がある」
「業績も伸びて、今はもう目先に心配事がない。こういう状況になったのは福岡信用金庫さんのおかげだ」

企業の会長さんや、先代の社長さんにお会いすると、そう言ってくださる方もいらっしゃるんです。このような企業さんをもっともっと増やしていきたいし、そういうお客様を大事にしていくこともうちの使命だと思っています。

昔、上司から言われた「目配り、気配り、心配り」という言葉を今でも大事にしています。今後もその言葉を形にして、次世代につなげられるよう尽力します。

◾️profile:安部文仁/1955年生68歳。熊本大学法文学部(現法学部)卒。大学卒業後、国家公務員試験を受けて当時の大蔵省北九州財務局に着任。以後約35年に渡り、主に北部九州(福岡、佐賀、長崎)の金融検査監督部署を歴任。2013年、福岡信用金庫の監査部門にヘッドハンティングされ、2018年に現職就任。

著者情報

福岡のベンチャー企業「ラシン株式会社」が運営しています。福岡の中小企業、個人事業主さんの紹介を行なっています。

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