〈おおかわ信用金庫〉日本一の家具の町を、世界のインテリアシティへ。地域と夢に挑む、筬島浩氏インタビュー。

不遇の学生時代に経験したアルバイトの数々が、仕事への姿勢を培った。
20代のうちに立ち上げた外為部門は、おおかわ信用金庫の
屈指の武器となり、地域の事業者の大きな支えに。
そして、時代の変わり目に苦心しながら、新しい夢に向かって進む今。
母の涙に押されて入った金融道を無心に歩む、
筬島浩氏にお話を伺ってきました。

本部、理事長室にて。就任3年目という筬島浩理事長
目次

不遇をバネに。母の涙に背中を押されたUターン就職

おおかわ信用金庫に入庫された経緯を教えてください

筬島:生まれ育った大川周辺から、横浜にある神奈川大学に進学し、その後、就職で地元に戻っておおかわ信用金庫に入庫しました。

大学では中高通してやっていたバスケットも続けて、キャンパスライフを謳歌していました。
しかし、大学1年生の時に父が心筋梗塞で倒れたんです。

当初、医師からは「もう、そんなに長くない」と言われたのですが、奇跡的な回復を遂げました。ただ、リハビリなどで療養が長期に渡ることになったんです。

家のために大学を辞めようと思っていたのですが、母に「自分が働くから大学だけは出て」と泣かれて。最終的に、授業料は出してもらったんですけど、仕送りは貰わないようにしていました。

そこからアルバイトに明け暮れるようになり、30か40箇所くらいは経験しましたね。教授の顔より、アルバイト先の人の方を覚えているくらい、アルバイト漬けの生活でした。

大変でしたね。それで、就職はUターンされたんですか?

筬島:結果的にUターンする形で、新卒でおおかわ信用金庫に入庫しました。

でも、実はアナウンサーになりたかったんです。だから、テレビ局の試験は受けていましたね。
夢が叶ったらごめんって話だったんですけれど、大手の局に入社するには、非常に狭き門で競争率も高く難しいということを思い知りました。
(その実、才能がなかっただけですけどネ)
 それでこれからどうしようかと考えた時に、母の顔を思い出すわけで。
 やっぱり地元に帰らないかんかな、と。

 そこで、最初に耳に入ってきたのが、地元の信用金庫が募集しているという情報でした。当時の私は、信用金庫というと銀行みたいな感じかな?くらいの認識でした。漠然と、金融機関なら頑張れば給料も上がりそうという期待感もあったので、おおかわ信用金庫に就職を決めたんです。

 私の父は地方公務員でしたが、当時の私は信用金庫以外の選択肢は特に考えていませんでした。
というのも、公務員の仕事は私の目にはラクをしているように写っていまして(公務員の方すみません、親父ごめん)。そもそも公務員は営利を目的とせず、地域のために働くという仕事です。ですが、いろんなアルバイトを経験するうちに、私にとって「仕事は頑張って対価を得ていくもの」「頑張った分、報酬が上がっていくのがやりがい」という認識になっていたんです。
ですので、いつも早く帰る父の仕事は、あまり魅力的には映りませんでした。

 それに、その時はまだ地域のために頑張りたいなんて思いもなかったんです。

のどかな町並みの中、ランドマークとなる本店社屋

入庫されてからの経緯を教えてください

筬島:最初は、佐賀の諸富支店というところの貸付係に配属されました。3ヶ月ほど経った頃に渉外で1名欠員が出て、4ヶ月目で渉外として外回りを担当しました。

 そして同じ頃、新店舗ができることになり、8月には開設準備室というのができました。その時に、新店舗(三又支店)の渉外2名のうちの1人として配属されることを知らされたんです。立て続けの異動には正直びっくりしましたね。

 開設準備室では、オープンまでに新規顧客を獲得しなければならないのが大変でした。知識がないので、動くしかありません。お客様のもとに行ってはくるけど、わからないので会社で聞いてきます、とお客様のところと会社を往復する毎日。
周りに恵まれてなんとかやっていたって感じでしたね。

 やりがいを感じて仕事に臨む一方で、早く異動したいとも思っていました。どんどん異動した方が経験になると思っていましたから。
結局、その新店舗には3年数ヶ月いて、4年目でやっと川口支店に行きました。26、27歳くらいだったと思います。

今なお、おおかわ信金最強の外為手法を切り拓いた30代

川口支店から外国為替業務に従事するきっかけは?

筬島:当金庫営業エリアは、輸入が多い地域でした。
家具資材・製品を中心に、多岐に渡って人件費の安い中国やベトナム、タイなどから輸入していたんですね。

 当時、外国為替の業務※を開始するには、国の許可が必要でした。しかし、当金庫は当時信金中央金庫の取次しか行っていませんでしたので直接外為業務をするには認可が必要だったわけです。その申請には、半年以上経験のある人間が2人以上就くという条件がありました。そんな中、貿易学科を卒業した私に声がかかり、旧東京銀行(現三菱UFJ銀行)博多支店へ実務の勉強のために通うことになったんです。

 行ってみると、研修なんて生半可な感じではありませんでしたが、なんとか外為公認銀行となることができました。
※金融機関に依頼される個々の外国為替実務。輸出入、為替予約、外国送金、外貨預金、外貨貸付け、海外進出支援業務等の取引及びこれに付随する業務

外国為替の業務内容とは、具体的にどういうことですか?

筬島:輸出入に関する資金のやり取りですね。
日本が輸入する側の場合、海外の方からすると、「この会社本当に払うかな?信用できるかな?」となってしまうので、当庫が信用状を発行するんです。
それを相手方の金融機関に送り、輸出業者に通知されると、安心して取引をされるんです。

今ではやり方も変わってきてはいるんですが(TT送金が支流)、当時は毎日大量にL/C(信用状)を発行していました。

 外為業務を取り扱う部署は専門部署になるので、準備期間も含めると10年くらいは担当しました。
おかげさまで業界トップクラスの外為取引の取扱高を誇っていて、今でも当庫の強みになっています。

ななつ星の車内装飾でも注目を集めた「大川組子」。釘を使わない木工建具の伝統技術

貿易は、商社がやるイメージでした

筬島: 当然、通常は商社を経由して海外との取引をされるのですが、当時直接海外との取引を検討される場合も増えてきました。
信用金庫のお客さまは個人事業主も多いので、最初は何から始めればいいかわからないということも少なくありません。
大手メーカーなどはともかく、中小の事業者にとっては、自社で必要な商材を直接買い付けることになりますから、商社を通すよりもコストが抑えられることになるんですね。

商売そのものの本業支援を始め、多彩なご相談に乗れるのは信用金庫の強みです。
おおかわ信用金庫は、外為取引において九州の信用金庫でトップの取扱高を誇ります。金融面からこの町の貿易の基盤づくりのお手伝いをしてきたという自負があります。

  ただ、金利や世界情勢の波、メーカーの工場が海外移転して空洞化するなど、大川市の市場の状況も変わってきています。
これからは、町を挙げての施策をいろいろと画策していかねばなりません。

変わりゆく時代の働き方改革と、狭域高密度戦略からの脱却

外為取引を軌道に乗せた実績で、理事長に就任されたんですか?

筬島:いえいえ、まだ先です。外為関係の業務を取り扱う部署の後は、10年ぶりに営業店の次長になって、さらに3年くらいで総務部に異動しました。
最初に常勤理事になったのは、49歳の時でしたね。

 小さい金庫なので、総務ではいろいろ経験しました。
決算から、経費処理、人事、リスク管理、経営企画的なものから法務まで。

資金運用もあったので、当時は有価証券運用なども行いました。
リーマンショックから東北の震災、コロナなどのショック時は、売りが売りを呼んでドキドキでしたね。

支店長と同格の総務課長までやりましたけど、その後はずっと総務・監査畑。
通常は営業推進系の人が役員に就任する場合が多いので、私はかなり珍しいタイプです。

 その後、53歳で常務理事、59歳で現職ですね。いつも突然の内示ですし、会長制度がないので、後ろに誰もいない感じが、恐怖に近い緊張感がありました。

それでも、引き受けたからにはやるんだって、自分に期待をかけて腹を括りました。

理事長に就任されて取り組まれたことはありますか?

筬島:働き方改革の一環で、最初に、本店営業部以外の全店舗に昼休みを導入しました。近くて便利なおおかわ信用金庫の良さにも反するので導入には悩みましたが、DXだけ進めても、休みが取りにくい職場ではダメですからね。

また、狭い範囲にたくさんの店舗を出す狭域高密度戦略を、今後は広域に軌道修正していきたいと、店舗の場所も見直しています。

これまで、当庫の戦略として、他の信金さんが不思議に思うくらいに狭いエリアにたくさんの支店を構えてきました。それはそれで便利なので、大川エリアでのシェアは40%もあります。

ただ、人も事業所も減っていくこれからの時代に、じゃあこのパイを50%、60%に伸ばしていく時のリスクを考えたら、方針を見直す必要性を感じたんです。
それで、近い支店(酒見支店)を本店営業部内に店舗内店舗(ブランチインブランチ)として統合したり、これまで店舗としてのエリア外とみなしていた地域に新店舗を出したりしています。

  限られた人や資源をどう采配して、変わりゆく時代に対応していくか。自分の決断で職員やその家族、地域にも影響しますから、本当に難しい舵取りです。

これまで筑後川向こうの佐賀県には諸富町に1店舗を構えていましたが、佐賀市内中心部に、初めて「ゆめ咲支店」を出店しました

地域のことを誰よりも知ること。それが地域のために働く喜びに

他の金融機関との1番の違いはどこですか?

筬島:やはり渉外スタイルですかね。
当庫は、お客さまの本業にしっかり最後まで寄り添うスタイルが特徴ですから、情報を丁寧に拾い上げることこそが生命線です。

集金や外回りを省くところも増えていますが、うちでは状況をどれだけ正確に把握しているかが、最後の支援に生きてきます。

最後まで寄り添うというのは、たとえば輸入で説明しますと、中国から港に荷物が届いた時、取引先つまり当庫のお客様から、決済が済んでいなくても荷物を早く受け取りたい(L/G保証)、もしくはもっと状況が悪く、本当は払えないけど、それがあれば現金化できるからと言われることがあるんです。
といっても、本来、その荷物は信用状を発行している担保荷物ですから、当庫のものなんですね。

  通常の銀行であれば、とっくに手を引くでしょうが、うちは、どうぞ売先に納品して代金を回収してきてくださいとお渡しすることが何度もありました。
そのまま倒産するなど失敗もありますが、お客様の可能性を最後まで模索することで信頼関係が変わってくるんです。だから「おおかわ信金さんだけは裏切れないね」と言っていただけることがあるんです。

結果、不良債権比率が高いのも保守的に引当をしているのはありますが、金庫の姿勢として最後までお付き合いするんだというメリットとしてお客さまにお伝えしていいと言っています。

情報を丁寧に拾い上げて、ギリギリまでお客様を支援する。この渉外スタイルが同業者との差別化になるということですね

筬島:そうですね。本業支援や地域のために、どれだけ働けるかということでしょうね。
そのための取り組みはたくさんしています。

  若い職員たちは当庫だからできることやそのやりがいを実感できるまで、少し時間がかかるかもしれません。ですが、時間軸を長く見てくれると当庫の仕事は面白くなることを伝えたいです。

効率も大切ですが、私の座右の銘は、「一隅(いちぐう)を照らす※」です。
まずは目の前の仕事を一生懸命しなさいと。そうしていると、自然に地域のためになり、金庫のためになり、最後は自分のためになるんだと。

そして、それは必ず見ている人がいる。私自身、そうやってきたつもりです。

※天台宗の宗祖・伝教大師最澄の言葉で、「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」が元。一隅とは、片すみ。各自がその場所や立場で最善を尽くすことで、誰もが幸せに過ごせる世にしたいと願ったという。(朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/articles/DA3S14844193.htmlより一部抜粋)

中小企業庁認定の「経営革新等支援機関」認定は、九州第1号

家具の街・大川のポテンシャルで、世界のインテリアシティへ

これから取り組みたいことは、ありますか?

筬島:やっぱり、地域の発展に寄与することですよね。

 今でこそ地方創生だの本業支援だの言われていますが、当庫では11年くらい前から、そういった取り組みはしていました。スタートは早かったですね。
 地域への貢献活動や経営への課題解決取り組みなどもやってきました。金融以外のところは専門家と一緒になって話を聞きに行くなど、当庫内に地域貢献事業班も作っているんです。

 大川は、家具を中心に他の業種も関連して動くような町ですから、人も事業所も減っていく中で、基幹産業が命です。

 コロナの巣篭もりが終わってまた人が外に出ていくようになって消費動向が飲食や旅行に向く中、物価高もある今、新しい施策が必要になってきています。大川では輸出量は元々少ないので、我々も関連機関と一緒になって、世界的なインテリアシティを目論むくらいの気持ちでいます。

 とはいえ、大川はJRや西鉄の駅も、インターの出入口もない町。
それで今、有明海周辺の近隣県と、大川市も協力して、有明海をぐるっと囲む道路を作っています。そこにできる大川のインターを降りたところに、市が道の駅ならぬ「大川の駅」構想を進行中です(大阪万博みたいに予算規模が大きくなってきており、反対派もおられますが、そこは市民の判断)。

家具の町ですから、野菜だけではなく、モデルルームのように家具を魅せる場所にもなればいいなと。リトル大川のイメージになるよう、若い市長さんに期待しています。

どんな商品に勝機がありそうですか?

筬島:箪笥などではなく、テーブルとかソファ、ベッド、さらに建具や空間デザインなどですね。
話題になったリッツカールトンホテルの内装や、九州観光列車「ななつ星」の組子など、新しい展開ができた事業者さんは生き残っています。

最近では、大川木工万能産地として巧の技も含め、プロユーザー(建築家やデザイナー・設計士)などからも注目され、新しいゲームチェアやネコ家具。猫が使うベッドやソファも結構な値段するんですが、売れています。今後は、色んなコンテンツ事業(マンガやゲーム・音楽・エンターテイメントなど)とのコラボに需要があると見込んでいます。

 大川にも、スウェーデンみたいに「衣・食・住」の「住」が先に来るような知名度が欲しいですね。北欧調とかアメリカン調というように、大川が世界で名を馳せる「住」のブランドになれればと思います。

大川はもともと日本一の家具の町。そのポテンシャルはあるんですよ。
市をあげて、基幹産業の後押しを力を入れてやっていかなければいけません。

話題のネコ家具は、サイズが小さいだけで、手間は人間用と全く同じという

他にはどんな施策が考えられますか?

筬島:あとはインターネットを駆使することですね。毎年秋に実施している大川木工まつりがコロナでできなかったときは、Web上で実施してネットでも売れるという実績ができました。
 インバウンド機会も含めて海外の方にも売るなど、インターネット事業の再構築を進めるお手伝いができたらいいですね。

 国内の方では、行政が行っているふるさと納税ですね。現在17〜18億を受け入れています。これもネットの再構築で体制を作れるでしょう(いつまで続くかはありますが)。

基幹産業といっても、構想や分野、さまざまな角度からアプローチができます。
これからも、ビジネスコーディネーター(金融は脇役)として地域のために頑張る金融機関を、またそれを超えたビジネスクリエーター的存在になれたら、最高なんじゃないかと思っています。

◾️profile: 筬島 浩/1962年生61歳。大川市出身。小中学校を地元で過ごし、柳川市にある伝習館高校に進学。その後、横浜の神奈川大学へと進み、一時はアナウンサーを夢見たことも。85年に大学を卒業し、おおかわ信用金庫入庫。2022年6月、奇しくも70周年の年に、59歳で現職就任。

著者情報

福岡のベンチャー企業「ラシン株式会社」が運営しています。福岡の中小企業、個人事業主さんの紹介を行なっています。

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