明治生まれの祖母のちょっと怖くて不思議な思い出をまとめた連載「祖母が語った不思議な話」終了時に多くの方からいただいた「続きが読みたい」の声にお応えした第2シリーズです。
昔、心の優しい若い旅僧がいた。
ある村の寺に立ち寄ったとき、高齢の住職から「この寺には拙僧しかおらんでな、寺も荒れるにまかせておる始末じゃ。どうじゃ、この寺を継いではくださらんか?」と懇願された。
旅僧は申し出を快く受けた。
寺を修理し、講堂も造った。講堂には村人を集め、皆が読めるようにかな文字でお経を書いた半紙を配り読み聞かせた。
それから十余年、旅僧は立派な住職となった。
ある日、おつとめをしていると見たことのないおばあさんが庭に座り一緒にお経を唱えているのに気が付いた。
中に入るように言ったが「ここで唱えさせてください」ときかない。
それから暑い日も嵐の日も雪の日も毎日来るようになった。
声はたどたどしいが目をつぶり一生懸命唱えている。
そのひたむきさに住職は感心したが、気になるところもあった。
おばあさんはただ一箇所「なむあむだぶつ」と間違えて覚えていて、毎日毎日お経を唱えているのに直らない。
また、唱え終わるとほかの村人と話すこともなくすぐにいなくなってしまうことだった。
どうしても気になった住職はある日小坊主に後を付けさせた。
「おばあさんは山の中の古い小さなお堂に入って行きました。隠れて見ているとボロボロの紙の束を取り出し、それを見ながらお経を唱えていましたがみるみる狐の姿になったので驚いて戻ってまいりました」
息せき切って戻ってきた小坊主はそう言った。
話を聞いた住職は件のお堂を訪ねた。
そこは昔、寺に伝わる書物を納めていたが、今は使われていないお堂だった。
中をのぞくと小坊主の言ったとおり老いた狐の背中が見えた。
住職は懐から取り出した数珠をお堂の踏み段にそっと置いて立ち去った。
その夜遅く、おばあさんが訪ねて来た。
手には古い紙束を大切そうに持っている。
「今日和尚さんが置いて行かれた数珠をお返しに参りました。また、お詫びしなければならないこともあり、こうして参上しました」
そう言うとおばあさんは数珠を渡し、紙束を手渡すと深々と頭を下げた。
それは住職が若いときにお経を書き損じた反古紙だった。
「お察しのとおり私は狐です。まだ若かった頃、山で罠にかかっていた私を住職さまが助けてくださりました。傷が癒えるまでこのお寺の庭に置いてくださいました。そして毎日住職さまの唱えるお経を聞いていると、なんとも言えず心がすう〜っとしたのです。それで山に帰るとき、そのお経を失敬してしまいました」
「あのときの子狐だったのか」
「はい。お寺にいるとき村人にお経の読み書きを教えておられるのを見ていてかな文字は読めましたので、お経を覚えようと毎日唱えました」
「覚えるまでにどのくらいかかったかな?」
「十年でございます」
「十年…」
「はい。おかげで人を化かす暇もありませんでした。そうしているうちに命の残りも少なくなりましたが、一つ気になっていることがあります」
「なにかな?」
「はずかしながらお経の中で間違って覚えたところが一箇所あり、直そうとしたのですが一番初めに繰り返し唱えて覚えたからかどうしても直りませんでした。私の唱えてきたことは無駄だったのでしょうか?」
「拙僧が書き損じたばかりにいらぬ心配をさせてしまったな。お経はな言葉よりも心が大切。お主ほど心を込めてお経を唱えたものはおらん。必ず往生できるぞ」
「そうですか! そのお言葉に救われました。このお経はお返しいたします」
「いや、それはお主が持っていてくれ。その方が儂も嬉しい」
「ありがとうございます。 それと、これを」
とおばあさんは巾着を和尚さんに渡した。
中には五十両が入っていた。
「誰も気付いていませんが、このお寺の庫裏は近いうちに必ず崩れ落ちます。新しく建て替えるときにお使いください」
「庫裏が…しかし、このような大金をどうやって?」
「あちこちの文字が書けない人に代わって手紙などを書いて集めたお金です。文字を教わったおかげで貯めることができました。どうかお納めください」
「分かった。ありがたくいただくぞ」
「良かった。これで思い残すことはありません」
晴れやかな笑顔を残しておばあさんは去っていった。
翌日、村人と一緒にお経を唱えていたが、おばあさんは現れなかった。
住職がお堂に行くとお経が書かれた反古紙を敷き詰めた上で老狐が穏やかな顔で事切れていた。
住職は狐に『吉音善女(きつねぜんにょ)』という戒名をつけて寺の庭に小さな祠を建て手厚く葬った。
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祖母から聞いた中でも特に好きな話である。
チョコ太郎より
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