〈遠賀信用金庫〉有事での金融人たちの姿勢に、地域に密着する凄みを見た。信用金庫の道へ舵を切った、岡部憲昭氏インタビュー。

地域に生まれ育ち、そこに根を張る人たちを〝地の人″と呼ぶ。
彼らとは正反対の性質を持つ、〝風の人″である岡部氏は、
視野を広く、未来まで見渡しつつ、日々を地域に奉仕する道を選んだ。
自由な中に気骨の通った戦略で、遠賀信用金庫をリードする
岡部理事長にお話を伺ってきました。

文字通り、酸いも甘いも経験し、信用金庫の道を選んだ岡部理事長。本部にて
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背負っているものが違う、〝地の人″と〝風の人″

生まれ育ちは、遠賀郡岡垣町ですか?

岡部:生まれは小倉で、生粋の岡垣人というわけではありませんが、育ちは岡垣で、高校も東筑高校です。

高校卒業後は、全国各地、海外まで転々としてきましたので、自分のことを〝風の人″と言っています。一方、遠賀信用金庫の役職員のほとんどはこの地域で生まれ育ち、仕事も地元の金融機関です。そうなると、幼馴染ですとか、学校が一緒だったとか、役職員同士やお客様との繋がりがとんでもなく深いんです。私は、そういった土地に根付く人々のことを〝地の人″と呼んでいます。

私は、次男坊ということもあって、いろんな土地に行かせてもらい、見聞を広め、多くの人に出会い、良い経験をすることができて本当に良かったと思っています。その一方で、地域に根付く地の人を、時折羨ましく感じることもあります。

大学はどちらに行かれたんですか?

岡部:熊本大学です。学費などの関係で、選択肢は少なかったのですが、入学してみれば当時の熊本大学のバンカラな気風が、肌に合っていました。
大学では、学費を稼ぐべく、バイトに明け暮れた日々を送っていましたね。港の荷役や農協の米担ぎ、家庭教師、ビルの中の水槽の組み立て、バーテンダーもやりました。

ただ、3年生になった時、「このままでいいのか」と突然ハッとなりまして。
家庭教師と、短期のイベントバイトの2本に絞って、心機一転、結構勉強しました。
バイトの収入が大幅に減少したので、毎食インスタントラーメンということも珍しくなかったですね。まさに、「貧乏生活」という感じでした。

その頃は何を目指して勉強されていたんですか?

岡部:大学では法律を勉強していましたが、法律家を目指していたわけではなく、漫然と九電や銀行、メーカーなどの、民間企業への就職を考えていました。

そんな中、国家公務員試験の上級職(現・1種)に合格し、各省庁の受験資格を得たんです。ゼミの先生からの後押しもあって、東京へ受験に行きました。そこで運よく大蔵省(現・財務省)の内定をいただいて、大した志もないまま国家公務員になってしまいました。

本店から数百メートルのところに実家がある岡垣町には、12年前に帰郷した

財務省勤務で経験した、面白い業務の数々

当時の大蔵省ではどういう業務をされていたんですか?

岡部:最初に従事したのは、国有財産の管理や処分をする業務です。通常、国家公務員の仕事は国家権力に基づいて遂行するものがほとんどですが、私が携わったこの仕事は例外で民と民の関係で民法の世界でした。

そういう背景もあって、ものすごく苦労しましたね。ただ、今にして思えば、私の役人人生において非常に貴重な経験になりましたし、やりがいも感じていました。

といっても、公務員が同じポストにいるのは、1年か2年。霞ヶ関以外にも、福岡、熊本、大分、名古屋、北海道、東北など、全国を転々と異動しましたね。

イタリアのミラノにも3年ほど在籍されていますよね?

岡部:1990年から3年間在籍していました。以前から海外赴任を希望していたので、出向が決まった時は嬉しかったですね。とくにミラノは人気な出向先のひとつでしたから。

ちょうどその頃は、バブルの終わり頃でしたね。出向当時の日本はイタリアブームで、秋冬のミラノコレクションには、すべての百貨店のバイヤーが1社当たり数百人単位で乗り込んで来ていたような時代でした。それが2年目になると、バブルが崩壊して日本企業が次々撤退。息子たちの日本人学校からも子供たちがどんどん消えて行くんです。

とある都市銀行がミラノ支店を出店するという話もありましたが、長い期間準備してさあ開店と思った時に、いきなり撤収。イタリアの地からみた日本の絶頂期と崩壊はかなり衝撃的でしたね。

とはいえ、東北財務局長時代の東日本大震災のショックとは、比べものにはなりません。

今なお筆舌に尽くしがたい震災と、そのさなかでの再会

東北財務局長時代に東日本大震災をご経験されているとのことですが、震災の当日はどちらにいらしたんですか?

岡部:東北6県を管轄する財務局長をやっていたので、当日は仙台から山形銀行の頭取に会いに行っていました。往復高速バスでの帰り道、まだ市内を抜けないうちに、地震が起きたんです。

交差点に止まっていると、前のビルのタイルがバラバラバラと落ちて、信号機も大きく振れていました。近くにいた女子高生がスマホを見て呟いた、「1メートルの津波予報が出ている」という言葉を聞いたのを最後に、情報が全く途絶えました。

使える電話もテレビもないし、高速道路は遮断。なんとか辿り着いた駅の公衆電話から山形財務事務所に連絡が取れ、迎えにきてもらいました。その後、やっとのことで事務所に着いたんですが、それでも状況がわからない。「これは大変なことが起きているぞ」と思いましたね。

とりあえず、本局に戻るべく、真っ暗で凍結した一般道の山越えで、6,7時間かけて仙台へ戻りました。

そのような状況下で、なぜ本局に戻ろうとされたのですか?

岡部:地震の影響で何かが起きているというのは明らかだったのに、全く情報が入らないということは、とんでもない事が起きているに違いない、なので、何としても仙台の本局に戻り、指揮を執る必要があると考えました。

というのも、災害が起こると、通帳や印鑑を持ってなくてもお金を出せるように金融機関に要請する、金融上の措置というのを発令しなければなりません。これが災害時の金融関係の仕事として最優先事項なんです。

ところが、庁舎が崩れていて中に入れない。そこで、財務局の金融を担当する職員を日銀の仙台支店に移動させ、その事務に当たらせました。しかしながら、問題は発令すべき被災地の範囲が分かりません。通常は被災地を所掌する財務局と日銀の支店が連名で要請するのです。しかし、被災地の掌握ができないこの状況では仕方ない、ということで、前例のないことでしたが、金融担当大臣と日銀総裁の連名で各金融機関に金融上の措置を発令しました。

翌朝からは、まず職員の安否確認、そして沿岸部の金融機関の状況の確認です。やはり、中々判明するのに時間がかかりましたね。
次は被災地の状況です。確か、4日目くらいから毎日、沿岸部の町に出て行きました。自治体によっては、町長、副町長が被災し、残された総務課長が1人呆然としているところもありました。多くの自治体がその機能を果たすことが出来ていないのです。
今、改めて思い返しても、本当に絶望的な状況でしたね。

その絶望的な状況をどうやって乗り越えたんですか?

岡部:多くの方々に助けられました。幸いであったのが、私自身が役人人生の最終章にある時期であったことです。長年にわたって培った人脈に大いに救われました。特に、当時の金融担当大臣は、小学校の先輩。財務省次官、金融庁長官はかつての上司。財務省、金融庁には親しい同僚や後輩が要職を占めていました。財務省の副大臣は、地元仙台選出の国会議員で、震災前から親しくしていました。さらに言えば、数ヶ月後に内閣府副大臣が、現地の対策本部長として赴任してきましたが、彼は何と高校の同級生。

奇跡的な顔ぶれに、天の采配じゃないかと思いましたね。

遠賀信用金庫本部は、自然豊かな町に立つランドマーク的存在

有事の経験と出会いから、信用金庫の〝地の人″の道へ

震災のご経験と、帰郷しての転職というのは、どうつながったんですか?

岡部:震災時に目の当たりにした各地の信用金庫の姿に、深く心を動かされたんです。

震災後、被災地のとある信用金庫と連絡が取れず、現地に出向いたのですが、本店は水没し、理事長の居場所が分かりません。市役所で話を聞いたところ、ちょっと離れた支店に支店長たちが集まっているとのこと。さっそく訪ねて行くと、理事長以下、各地の支店長達が今後の対応についての会議中でした。

目の当たりにした光景は、まさに衝撃的。この時、ほとんどの職員の自宅は流され、家族は避難所に避難しているのです。理事長の奥様もその時点では行方不明。理事長から一言激励の言葉をかけて欲しいと頼まれましたが、泥だらけの長靴姿で、地域の金融機能を維持しようとする姿に一言も言葉が出ませんでした。

一方、福島では、原発事故で避難命令が出ていましたが、そこに住むお客様すべてがすぐには避難できません。そんな状況で店舗を閉めてしまうと、お金が出せなくなりますよね?しかし、放射能に汚染されており、外に出れば被ばくしてしまいます。そこで、福島の信用金庫は、本店に理事長以下の役職員が立て籠り、煮炊きをしながら、窓口を開けてお客様の現金の払い出しに応じていました。その様子は、まさに命がけでしたね。

信用金庫のこんな話はいくらでもあって、やっぱり地域を思い、地域を支える姿勢が違うなと感じました。私自身、新設する復興機構に行く話もあったのですが、この未曾有の震災の中で目にした信用金庫の姿勢に深く感銘を受け、「自分も地域のために働きたい、地元に戻ろう」という決意が固まりました。

「スモール イズ ナイス」で、明るく元気に、楽しく働こう!

遠賀に戻られて10数年。間近で見てきた信用金庫は、いかがでしたか?

岡部:この地域は、本当に恵まれていまして、災害は少ないし、立地的な恩恵も非常に大きい。
遠賀から宗像方面は、いわゆるベッドタウン。そして鹿児島沿線上に沿って、北九州方面は製造業の街、福岡方面は商業の街。今、非常に元気がいいですよね。

遠賀信用金庫は、元々炭鉱の町に共同組織として設立された金融機関です。
信用金庫は、地域と運命共同体ともいえます。閉山になった炭鉱と同じ運命をたどってもおかしくはありませんでしたが、そうはなりませんでした。
その理由として、炭鉱閉山後、北九州及び福岡方面に営業エリアを拡大し、その結果、北九州、福岡、その中間のベッドタウンという3つの営業エリアを持つに至ったことが挙げられます。

あとは、やはり信用金庫ならではのお客様との距離の近さが、銀行とは一線を画した世界にいるなと感じます。いくら地方銀行さんが「地域密着」「地域貢献」を謳っても、地方銀行の支店長は一度赴任したら、ほとんど改めて赴任することはありません。ここではどの支店に行っても、お客様と1対1の関係が切れないんです。

これはある程度に規模が小さい組織だからこそのこと。
「スモール イズ ナイス。」小さいことは、格好いい。
小さい組織だから、できることがたくさんあるんです。

信用金庫として、地域ではどのような活動をしていますか?

岡部:いろいろな取り組みをしていますね。 遠賀信用金庫の経営理念は、「地域の中小企業の発展、地域住民の生活の向上及び地域社会の繁栄に全力を尽くす」こと。いろいろな判断基準をここに置くことで、生きた理念だと思っています。

これを実践するには、自分の仕事にやりがい・生きがいを持って、明るく元気に楽しく働くと言うことが重要です。イヤイヤやらされても、楽しくない。自分が地域のため、お客様のためになっていることを実感しながら働いて初めて、お客様を喜ばせることができるんじゃないでしょうか。
この考えを職員に最も伝えたいと思い、日々試行錯誤しています。

地域貢献活動もその一環です。子供食堂への支援ですとか、『ふれあい旅行』、『しんきん合同商談会』、『おんしん講演会』、あと婚活支援や、野球やサッカーのスポーツ大会の冠とかもしています。

それから、『暮らしの安心コーナー』もあります。これは「電球を替えたくてもちょっと手が届かない」のような、暮らしのお困りごとの相談窓口です。金融の相談じゃなくても、いつでもなんでも相談できる、そういう活動は熱心にやっています。

そして、地元の作家さんの絵本を被災地の子供達に届ける、『笑顔プロジェクト』。今年は、能登に送ろうとただいま準備中です。

遠賀町在住の絵本作家・さかいみるさんのキャラクター。今年は能登地震の被災児童たちにも絵本を届ける予定。

「スモール イズ ナイス」、小さい組織だからこそできる取り組みについて教えてください

岡部: 社内では『スマイル運動』という活動をしています。各営業店、本部、各部の横断的に結ぶスマイル委員というグループを作り、お客様を笑顔にしようという取り組みです。

スマイル運動は、最初は大きな声と笑顔で、お客様に挨拶しましょうみたいなことから始まりました。そこから発展して、今では事務処理の効率化を目指してお客様をお待たせしない仕組みを作ろうとしたり、お客様に同じサービスを感じてもらえるようにグループ全体で統一しようと働きかけてくれたり、想定していなかったようなことまでやってくれています。非常にありがたいことですよね。

そして一昨年からはネット支店も開設しました。通常、ネット口座はWebで完結するものですが、遠賀信用金庫では、オフラインでもフォローできる体制を整えています。
「使い方がわからない」「やってみたけどリアルがいい」と言われても、いつでも好きなときに戻れるようにしています。業務効率を目的としてネット口座が溢れる中で、非効率なネット口座でもいい、そういうコンセプトで始めました。

もちろん、フェイスtoフェイスは、大事にしています。ただ、ITテクノロジーもうまく活用して、対面とデジタルを融合したハイブリッドな顧客対応を目指しています

毎日チャットでやり取りしているお客様でも、1週間に1回訪問をしているなら、それを減らす必要はないんです。1週間に1回の訪問に加えて、お客様の毎日に繋がれるものを持つと、これまで以上の繋がりになる。そんなことを先んじて進めていっています。

全国信用金庫協会より贈られた盾。身近な地域共生の活動が讃えられた

最後に、個人的な夢や目標などは、何かございますか?

岡部:ささやかですが、今の夢は早く新しいバイクに慣れて、そのバイクで被災地に出向き、被災者の救援や復旧・復興のお手伝いをすることですね。

これまでハーレーダビッドソンに乗っていたのですが、ハーレーは荒れた道は苦手です。そこで、たくさんの荷物を載せられる大型のオフロードバイクに、つい最近乗り換えました。このバイクで荒れた道を乗り越えて、被災地のボランティアに駆けつけたり、救援物資を運ぶような活動ができればと考えています。

しかしながら、ハーレーとはずいぶん操作の感覚が違うので、土日の朝早くに、人のいない広めの駐車場で、低速走行や旋回の練習なんかしています。

やっぱり、自分の人生の中で震災は最もインパクトのある経験でした。これから、日本中でいろいろ起こるだろう時に、自分に何ができるかを考えながら、少しでも人のためになれたらと思っています。

◾️profile: 岡部憲昭/1955年生69歳。遠賀郡岡垣町出身。4人兄弟の次男。東筑高校卒業後、熊本大学法文学部法科(現法学部)進学。1979年4月大蔵省入省。1989年大臣官房調査企画課課長補佐、1990年日本貿易振興会ミラノ駐在を経て2001年7月より財務省。各地へ赴任する中で2011年東日本大震災を経験。翌年10月現職就任、10月で12年目を迎える。

著者情報

福岡のベンチャー企業「ラシン株式会社」が運営しています。福岡の中小企業、個人事業主さんの紹介を行なっています。

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