強烈な義父との同居生活「あんなに使えない嫁は離婚しろ!」罵詈雑言の日々


結婚して数カ月、突然の病により義母が他界しました。それにより義父との同居生活がスタート。いざ同居が始まると、義父のびっくり行動や罵詈雑言に振り回される日々が待ち受けていました。約3年間の同居生活は私を強い嫁にしてくれたのです。

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同居の始まりは突然に

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 結婚から約半年が経った頃、義母が突然の病に倒れ亡くなってしまいました。義母はまだ50代で家族にとっては青天の霹靂。一方、義父は70代で家事全般ができない人でした。夫の兄弟は皆結婚しており、夫は長男。必然的に私たち夫婦が義父と同居することになったのです。

 「義家族と同居」と聞くと嫌がる人も多いと思います。しかし当初の私は嫌ではありませんでした。というのも、義父は会社経営をしていてお金は持っていたし、あまり多くは語らない静かな人という印象だったからです。こうして私たち夫婦と義父との同居生活がスタートしました。

 数カ月は何事もなく、夕飯は必ず全員で食卓を囲んで和やかな雰囲気でした。しかし次第に「あれ?」と思うことが増えていったのです。

 義母を亡くした義父を心配して、毎週のように遊びに来る義姉家族(夫婦と子ども2人)。当然のように夕飯の支度は全部私でした。また義父の友人が遊びに来たら、私がお茶出しの対応をするため、休日は出かけられないことも。

 当時20代半ばだった私は、家事が未熟だったこともあって、よく義父に叱られることもありました。「掃除が足りない」「冷蔵庫内を整理しろ」は日常茶飯事。義父は「昭和の男」を体現したような人でした。そして義母の代わりに同居した私は、今まで義母がしていたことをすべてやらなくてはいけなくなったのです。

我慢が爆発した日

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 その後私たち夫婦に息子が産まれました。慣れない育児と家事に奮闘する日々。両立がうまくできず、家事がおろそかになることもありました。その頃から義父は親戚中に私への不満を言いふらすようになったのです。家事ができていないというだけでなく、気が強くていう事を聞かないなどの内容までありました。
 「しっかりお義父さんの面倒みろよ!」と直接説教してくる親戚もいたので、毎日文句を言われないようにするので頭がいっぱいでした。

 ある日、義父がいつものように私への不満を夫にもらし、
 「あんなに使えない嫁は離婚しろ!」と言ったのです。

 当時、夫は私の味方をしつつも、実親である義父のことを批判するようなことはありませんでした。しかし『離婚』と言われた夫はさすがに我慢できなくなったよう。私も夫からその話を聞いた瞬間、何かが心の中で折れてしまいました。
 
 それから夫婦で話し合い、「これ以上一緒にいると、実の親だけど嫌いになってしまう…」という結論に。義父に同居解消を願い出ると
 「お前たちが悪いと言われるぞ」
 「お前たちがいなくなったら、親戚もみんな遊びに来やすくなるな」などたくさんの嫌味を言われました。最後だと思い全て飲み込んで我慢し、ようやく約3年の同居生活が幕を閉じました。

嫁だって負けてられない

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 同居解消後は一人暮らしになった義父でしたが、義姉や親戚が頻繁に遊びに来てくれるのを期待していたようです。しかし実際には来る人がほとんどおらず…。そのため何かにつけて実家に集まるように連絡がありました。

 会うたびに
 「孫に風邪を引かせるな」
 「しっかり妻として夫を支えろ」など小言のオンパレード。しかし同居中の悪口や、つらい仕打ちと比べれば何ともありません。
 「そうですね~」
 「ご心配ありがとうございます」と答えられるまでに図太くなりました。

 さらに義姉達には今までの義父の言動を報告。義姉達の理解を得てコロナ禍以降、親族の集まりは欠席することができました。

 でも義父の誕生日や父の日には、ちょっと高めのパジャマや靴下、孫の成長アルバムなどのプレゼントを用意しています。義父はいつも
 「いいものもらったなぁ」と嬉しそうに、子どもたちから受け取ります。そうすると不思議なことに、義父から私への不満は出てこないのです。

 私は同居生活で得た精神力で、すっかりたくましい嫁になりました。
 「家庭はお母さんが笑顔でいることが一番大事」をモットーとして、スーパーポジティブ思考に。あの頃はつらかったけれど、今では自分のためになったと思える経験です。

(ファンファン福岡公式ライター/ふう)

※この記事内容は公開日時点での情報です。

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