〈田川信用金庫〉空手に学んだリーダーシップ。二刀流で歩み続けた、中藤保弘氏インタビュー。

空手家として、金融マンとして。
いつの時代も、二刀流で歩み続けた。
どんなに忙しい毎日にも、空手への炎が消えることはなかった。
今、一つの信用金庫を牽引する立場になっても、
その根底には、空手から学んだリーダーシップの極意が生きているという。
新たな舵を握る胸の内を、田川信用金庫理事長・中藤保弘氏に伺ってきました。

田川信用金庫の本店理事長室でお話を伺った中藤理事長
目次

人生を方向づけた、中学時代の空手との出会い

ご出身地と、子供の頃はどんなお子さんだったか教えていただけますか?

中藤:生まれも育ちも田川市内です。幼少期に一時、飯塚にも行きましたが、
大学進学以外は、小中高、ずっと田川です。

小さい頃から、スポーツ好きな子供でしたね。
近所の人たちとチームを作って、草野球をやって遊ぶような少年時代でした。

ただ、中学になると、同級生より、1つ上の先輩たちと遊ぶようになっていったんです。

その中学時代、一緒に遊んでいた先輩たちが、高校に進学すると、みんな空手部に入りまして、
先輩たちは学校が終わってからも、道場に行って夜9時、10時まで練習するようになったので、私は遊び相手がいなくなってしまったんですよね。

すごくやりたくてというわけでもなかったんですけど、先輩達から、お前も道場に入るかと誘われる形で、空手を始めました。

でも気づいたら、半年くらいで先輩たちはみんな辞めてしまって、
いつの間にか私だけが残っていましたね。

空手は、高校でもそのまま、続けられたんですか?

中藤:そうですね。
まだ、空手を始めてすぐの頃から、試合に出させてもらえるようになった上、いきなり大会で優勝するようなこともあって、空手にどんどんのめり込んで行きました。
高校に上がる頃には、もうかなり空手を面白いと感じるようになっていて、地元の公立ですが、
高校も空手部が強い学校に進学しました。

高校では、今で言うインターハイの前身である大会で型と組み手の両方で、全国ベスト8くらいの成績。大学でもやりたいと思うようになっていきました。

特待で、憧れの拓殖大学にとってもらえたので、本当に嬉しかったですね。
業界関係者は試合を見ていますから、メジャーな大会で成績を残していたことで、無事、空手で希望の大学に進学できました。

世界を視野に、本格的な空手家の道を目指した大学時代

拓殖大学は、全国から空手の強者が集まっているような、厳しい場所でしたか?

中藤: 当時、日本の空手界で大学といえば、拓殖大学という感じでしたから。
大学選手権など現役で強い人も、その後、海外に指導に行くような人も、ほとんど拓殖大学から出ていました。

もちろん練習はとても厳しかったです。
1年生は5時起きで、練習の準備をし、朝練は5時半から2時間、7時半まで朝からしっかりトレーニングしていました。

走ったり坂道ダッシュだけでもきついのですが、その他、藁を巻いた木を地中に埋めて突くようなものや、ウェイトトレーニングもみっちり2時間やっていたので、
毎日、授業に行く前に、ぐったり疲れていましたね。

当然ですが、授業後も当たり前のように、ずっと練習です。
アルバイトなどをする気力も、体力も、残っていませんでしたね。

朝練で疲れていても、授業にはちゃんと出られていたんですね。

中藤: 授業に出た方が楽だったんです。

というのも、当時は、体育寮と言いう、格闘技系の部が6つも入っている所に住んでいたんですが、掃除や洗濯、それまで親がやってくれていたことを全部自分でやった上で、先輩の分も頼まれたり、夜中に起こされておにぎり買ってこいとか、電話番とか、お使いなどがしょっちゅうでしたから、寮にいるより授業に出た方がましだったんです。

使い走りが多くて、休みの日でも、気が休まりませんでしたね。
特に1年の頃は、稽古より寮生活の方がきつかったくらいです。

大学卒業後の進路については、どのようなお考えでしたか?
その頃から、選択肢に田川信用金庫があったんでしょうか?

中藤: いえ、私は、卒業しても空手をやるつもりでした。

日本空手協会の研修制度というのがあり、大学卒業、かつ各種大会で優秀な成績を挙げた者が推薦され、試験を受けられるんです。

さらに2年の研修の後、海外派遣や指導員など、空手関係の仕事や指導員などに就く道がありました。大体2段以上の選手が対象です。

私は、その研修を受けて空手を続けようと、ずっと考えていました。

ただ、空手を続けたいと両親に相談したところ、家の事情もあって、大学を卒業したら、田川に帰ってこいということになりました。

空手を続けるつもりでしたので、就職活動も何もやっていなかったですし、まして田川にUターンしての就職なんて考えていませんでしたから、戻ってもしばらくは近くの道場にアルバイトで空手の指導に行ったりしていました。

そんな状況の時に、父の知り合いがたまたま信用金庫の役員を知っているからということで、紹介してもらって、同期に2ヶ月遅れで入社しました。

田川信用金庫の本店理事長室には初代理事長・林田春次郎氏の像も

金融マンと空手家の二刀流へ。負けず嫌いが結実した渉外時代

田川信用金庫に入庫されてからは、どのようなお仕事をされたんですか?

中藤:最初に配属されたのは、本店の預金課でしたが、3ヶ月で、金田支店の渉外担当に異動になりました。田川郡あたりの町をバイクで回っていたのですが、道を覚えるのが大変で、慣れるのに半年以上もかかりましたね。

渉外の仕事は大変でしたが、空手も続けさせてもらっていましたし、試合になったら休みをもらうこともありました。そのおかげで、「仕事もいつまでもわからないじゃいけないな、ちょっと頑張ってみようという」気持ちが少しずつ膨らんでいきました。

渉外では、毎月営業成績が出るので、やっぱり同期や先輩たちにも負けたくないという気持ちも出てきて、お客様に色々な商品をお勧めしたり、新規訪問とか、お客様にも取引先をご紹介していただいたりと、だんだんと成績も上がって、やる気が大きくなっていきましたね。

空手と同じで、成績が上がると仕事も面白くなってきました。
そこから俄然、仕事に対する関心が変わってきたと思います。

田川信用金庫では野球部にも入っていたんですが、ある時、上司に、1ヶ月定期積立を連続して取れたら、スパイクを買ってやるって言われたんです。
「取れるまで帰らん!」と遅くまでやっていたら、帰ってこないって騒ぎになっていたこともありました。笑

そんな負けず嫌いな性格が功を奏してか、気づいたら、渉外の営業成績でも大体上位を取れるようになっていました。自分に自信がついてきたのも、この頃です。

ずっと渉外担当でいらしたんですか? 
金融の知識も、店舗のご経験から学ばれたのですか?

中藤:30過ぎくらいまでは、渉外担当でした。
店舗は、金田支店の後、方城……今の福地町ですね、そちらに新店舗を出す話があって。
それから旧東店。最初の本店をいれても、私は4店舗くらいしか行ってません。

その後は、融資を専門にやる、本部の管理課に3年ほど行きました。

管理ですから金融法務の勉強です。試験が色々あるんですけど、1年で合格しなかったらクビだと言われて必死に勉強しました。

試験にも受かりましたが、それよりもその過程で金融の本質的な知識を身につけるのに、大変役立ちましたね。

それまで営業店にいる時は、お客様の家に差し押さえが来たら、すぐ本部に連絡して指示を受けてたんですけど、それがどういう仕組みなのかがわかって、答え合わせみたいなことがどんどんできていくんです。面白かったですね。

田川信用金庫では野球部にも所属。スパイクのご褒美を目指し、精進したことも

空手指導者の道との狭間で悩む、役員就任への抜擢

役員職には、どのような経緯で就かれたんですか?

中藤:まず管理課の後、金田支店の支店長代理になりました。
内部事務を覚えないといけないので、窓口職員に教わりながら3年ほどやって、そのまま支店長になりました。
異動もあり、東支店など、支店長職は全部で7〜8年やりました。

その後、役員になったんですが、普段、理事長に呼ばれることなんてないのに、明日ちょっと理事長室にと言われて。咄嗟に何かやったかな?と思いましたね。笑

当時、空手の方も、福岡県の国体の監督とか、高校にも指導へ行っていたので、インターハイとか全日本選手権などで結構休みも取っていたんです。どっちが本業なんだ、もう少し空手の活動を減らせって言われるとばかり思って理事長室に行きました。

案の定、理事長から「空手もう少し減らせんか?」と言われて、きた!と思ったら、「実はお前を役員にしようかと思っている」と。
青天の霹靂でした。
そのお話を受けるかどうか、2週間も悩んでしまいました。

そこで、当時、役員だった、かつての上司のところへ相談に行ったんです。
すると役員は、「迷ってないで、受けなさい」と背中を押してくださいました。
実は、その方が役員を退任するタイミングで、その後任を私に任せたいという話だったんです。

公私に渡って面倒見てもらって、信頼していた方だったので、その方が言うならやってみようと。
お受けすることにしました。平成25年なので、50を過ぎた頃ですね。

それまで、ずっと空手と金融業の二刀流ですよね?
体力がすごいですね。

中藤:ずっと鍛えてきたので、自分でも体力はある方だと思います。

当時のスケジュールを説明すると、土曜の午前中に北九州の高校に空手の指導に行って、コンビニのおにぎりを食べながら移動、午後から直方の高校の空手部で指導。日曜は朝から博多で県の強化選手の練習に行ったりというようなこともありました。
今はちょっと無理かもしれませんね。

田川信用金庫は、結構、有給休暇の取得を許してくれたので、
休みは全部、空手の試合に使っていました。
でも、土日、空手に没頭すると、月曜は、返ってスッキリして仕事に入れてた気がします。

今は、ほとんど空手の役職などは下りましたけれど、
土日、地域のイベントなどが続いても、体力的には慣れてるんで、大丈夫です。笑

人心を束ねる手腕も、根幹は、空手に学んだ日々

田川信用金庫さんの特徴や目標について、教えてください

中藤:まずは地元に、なくてはならない金融機関にしていきたいと思っています。
そのためにもまずはシェアを伸ばしていかなければなりませんが、
金額ではなくて、お客様の数を増やすように営業店には伝えています。

直接、融資や預金をいただけるとか手数料が入るとか、そういう話ではないんです。

杓子定規に考えるんではなく、なんでもいいからお客様の手助けになることで、将来的に何かが返ってくるかもしれないということでいいんです。

だから、特に若手の渉外担当には、田川信用金庫としてお付き合いするんじゃなく、あなた自身がお客様に好かれて、あなたの名前で呼ばれるような、ファンを作りなさいと。

そういう風になれば、必然的に地域になくてはならない金融機関という形に、少しずつ変わっていけるんじゃないかと思っています。

そんな風にお考えになるには、何かきっかけとかあったんですか?

中藤: 小さい町ですので、地域のことは考えざるを得ません。
例えば、田川信用金庫の営業エリア。
旧産炭地なんですよね。なので、産業も縮小していくし、人口も高齢化も、博多とかに比べて疲弊が進んでいます。
その中でどうしていくかと考えた時に、一番の課題が若手の育成、つまり、人材なんですよね。

転職ブームが進んだのもあり、平成20年代とか、下の世代がぽっかり空いてるんです。

退職時は、意思を固めてから言ってくるので、そこから引き止めようとしても、無理ですよね。
そこで、まずは職員たちの考えを知りたいと、最初にやったのが全職員アンケートでした。
不満でも不安でも、考えていること、言いたいことがあれば、なんでも書いて、という形で実施して、意見が出れば、変えられるところは変え、できないことは理由を挙げて考える、という風に職員にも納得できる形で検討することにしました。

その意見を見て、職員が自分の職場に不安があったりしたら、その不安がお客様にも伝わってしまうのではないか?と考え、まさに今、力を入れて取り組んでいます。

民謡 「炭坑節」にも謡われた炭都の面影が残る田川の町並み

理事長というお立場になられてからのリーダーシップにも、
空手の経験が生きていたりしますか?

中藤:そうですね。

大学4年の時に空手部のキャプテンをしたんですが、それまでにないほど厳しい練習を課したんです。
部員たちからオーバーワークだと不満も出ましたが、おかげで、これまでどこの大学もとったことのない、空手の3大大会を年間通して全部取るという快挙を得ることができました。

でも、その時は、やっぱりまとめるのが大変だったんです。
今考えれば、それが勉強になりました。

空手部の同期や後輩でも、頑張っているやつと話したり、一緒に練習したり、
そういう経験があったので、チームをまとめるような時には、役立っていると思いますね。

そのおかげか、いろんな意見やアイデアが自発的に出てくるようになって、
自分たちの職場に対する意識が変わってきたんじゃないかと感じています。

ただ、意見も聞いただけではダメで、実行に変えていかなければなりません。
ヒアリングも、女性には女性に聞いてもらうとか、
より話しやすい環境にも気を遣っています。

前回出された課題をクリアできたら、またアンケートをやってと繰り返して、
これが企業風土になっていったらと思っています。

課題があっても、克服して前に進む。それこそが、世界に誇る、空手に学んだ精神です。

◾️profile: 中藤保弘/1959年生65歳。田川市出身。中高を通して地元で空手に励み、大学は、空手の名門・拓殖大学に進学。その後、田川信用金庫へ入庫後も空手家との二刀流を継続。選手引退後は国体、インターハイ、全日本選手権などの監督を歴任。令和2年より現職。

著者情報

福岡のベンチャー企業「ラシン株式会社」が運営しています。福岡の中小企業、個人事業主さんの紹介を行なっています。

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