〈飯塚信用金庫〉地元に根ざし、育んできた縁が、世代とエリアを越えて広がる。出会いは人生の宝。正中良樹氏インタビュー。

先輩の背中を追いながら見て学び、リーダーとしてのあり方を知り、
地元に尽くすことで、お客様との代え難い信頼関係を築いた。
その縁は円となり、やがて大きく広がり、
世代を超え、新たなお客様との付き合いを生み出してきた。
今、正中良樹氏が若い世代に伝えたいのは、キャリアの中で紡いできた、
人との出会いが持つチカラ。
その極意について、じっくりとお話を伺ってきました。

本店理事長室にて、取材を受ける正中良樹理事長の様子
目次

先輩の姿勢から学んだ、リーダーの資質

まず、飯塚信用金庫入庫までの経歴を教えてください。
ご出身はどちらですか?

正中:2006年に市町村の合併があって、山田市、稲築町、碓井町、嘉穂町が統合されて嘉麻市になったんですが、その中の嘉穂町というところで生まれ育ちました。
 地元の小中学校、そして高校は山田高校、大学は、福岡大学の経済学部経済学科へ進学しました。珍しいと思うんですが母校である小学校、中学校、高校はすべて統廃合でなくなりました。
母校といえるものは大学だけです。
なんか、寂しいですよね。母校が無いということは。

大学では、学校の近所に下宿し、生活費を稼ぐため、アルバイトに明け暮れていましたね。
周りの友人もみんなそうだったので、私も自然といろんな仕事をするようになっていました。
土木工事や線路の枕木交換など、夜間の仕事もいろいろ経験しましたね。

 大学2年の末から卒業までの間は、地元新聞社の発送部で仕事をしていました。
新聞配達じゃないですよ?
新聞を九州一円の各支局に仕分けして送り出す仕事です。

学生だったけど契約社員扱いでボーナスも出る。給料はよかったです。所得税も引かれていました。このまま働けばと社員さんからお誘いを受けたんですが、夜間の仕事だったので、昼間の仕事がしたいなと思っていました。

就職の際、どういう理由で飯塚信用金庫を選ばれたのですか?

正中:特別な理由があった訳じゃないんです。

家が農家だったので、当初は、兼業できる嘉穂町役場を考えていました。
ただ、ちょうどオイルショックの影響で、嘉穂町も飯塚市も募集がなかったんですよ。

 それでたまたま就職課に行ったら、飯塚信用金庫の求人票が出ていて、
同じ山田高校出身の友人たちと10人くらいで、「帰省がてら行ってみようか」という話になったんです。 そして試験を受けることになったんです。なかなか返事が来なくどうなったんだろうと不安に思っていたんですが、12月中旬位に通知がきました。幸い合格だったんで、とりあえず実家から通うことになりました。

 最初は、内勤係で後方事務が担当です。ひたすらテラー係が受け付けたものを、後方で伝票処理をする仕事をしました。当時、普通預金だけはオンラインでしたが、その他は紙ベースのアナログの時代で、すべて手書きでした。

 それから半年ほど経った頃、男性は、通常では営業推進係に行く流れなんですが、なぜか私は出納係になりました。テラー係の元締めみたいな仕事です。
つまり、毎日、大量のお金を数えなくちゃいけない。硬貨計算機はありましたけど、紙幣は全て手で数えて帯封をするんです。
日計表は、伝票をソロバンではじいて手書き、これがもうとにかく大変でしたね。
電卓はありましたが、当時はソロバンが主役の時代です
ただ、私はソロバンが大の苦手で毎日悪戦苦闘していました。

そのため新入職員は、月に1回ソロバン検定試験があって、合格するまで受けなくてはなりませんでした。
珠算2級の検定試験問題の加減算だけを30分で30問、27問正解で合格という試験です。
普通は1年以内で合格する人が多かったんですが、私は2年半かかりました。

だから3年目にして、菰田支店の営業係になった時は、その苦痛から解放され楽しくて仕方なかったですね。

理事長が生まれ育った炭鉱の町、嘉穂町。今は、自然豊かな風光明媚な場所に

営業職に適性があった、ということでしょうか?

正中:昭和55年ごろの話ですが、営業係は当時、預金を増加させることが最大の仕事でした。
1日10件ほどの事業所を回って売上の集金、20先ぐらいの定期積金の掛金集金、定期預金の満期管理をするのが主な仕事でした。融資業務は店舗内で融資係が対応すれば十分で資金需要が非常に高かった時代です。まだ、預金は今みたいに自由金利の時代じゃなく、どこの金融機関も同じレートでした。信用金庫は、銀行と比べて預金金利が0.1パーセント高かったので定期預金獲得には非常に有利に交渉することが出来た時代です。(金融行政は護送船団方式の時代)

入庫6年目にして宮田支店に異動です。そこでカルチャーショックを受けました。
担当地域は、3年先輩の方の地区を引き継ぐことになったんですが、仕事のやり方が全然違ったんです。 それまでは若かったということもあり、ベッグセールス主体で、ひたすら訪問することで何とかなっていたんですが、その先輩は、経営者の方を相手に提案型スタイルでされていて、「こういうやり方があるのか」と衝撃を受けましたね。自分自身の知識不足を痛感したということです。

先輩の営業姿勢も、お客様の経営哲学も新鮮で面白くて、そこから「もっと勉強しなくちゃ」と意識が変わりました。その先輩を見習って、自分が中心となり、みんなを引っ張っていくように意識しました。この頃に「リーダーってこんな風に動くんだな」ということがつかめてきた気がします。

急速な店舗拡大時代に身につけた、業務ノウハウ

リーダーとしてのご活躍について、お聞かせください。

正中:宮田支店異動後1年半で、新店舗の開設委員に選ばれました。
当時は、山内出張所、穂波支店、稲築支店と、1年で3店舗も店舗拡大をしていた頃です。

私が入庫した53年は10しかなかった店舗が、昭和63年には17店舗にまで増えましたから。
そんな拡大の一端に関われたのは、名誉な話でしたね。

新店舗の立ち上げに関わったメンバーは、わずか4人。
店舗オープンまでの7か月間は、担当地区を3分割して、1人あたり1日100件以上の訪問をこなしました。 名刺とパンフレットをひたすら配って回る、まさに体力勝負という感じです。

そのうち営業係も融資営業をする時代になっていきました。
そんな時、また先輩に恵まれて、営業推進係としての融資のイロハを教わる機会を得ました。
融資の取組み方法や交渉の仕方、保全面の考え方、稟議書の書き方、オンライン登録の方法等を細かく教われたのは、本当に貴重な経験でした。
それからは、とにかく稟議書を書きまくりましたね。振り返ると、支店全体の4割ほどの稟議書は私が書いたんじゃないでしょうか。

バブルの頃は、どちらでお仕事をされていたんでしょうか?

正中:平成2年から4年間、バブル真っ只中に粕屋支店へ内勤担当代理として異動しました。
不動産事業者に対し総量規制が制定され、不動産開発案件が都市銀行などから紹介されていた時代です。当時、当金庫の方針が、収益物件など最後まで保有目的であれば検討するが、売却目的であれ投機との解釈で対象としないという姿勢を貫いていましたので、住宅ローンや消費資金ローンがもっぱら主力商品でありました。 そういったおかげで、その後のバブル崩壊の憂き目には遭わずにすみました。

 4年間勤務後、バブルが弾けた頃には幸袋支店へ、さらに本店の預金担当次長として勤務しました。

ちょうど平成11年頃、投資信託の取り扱いが信用金庫で解禁されたんですが、当金庫でも投資信託を取り扱える組織づくりをするために、信金中金厚木研修所に1週間研修を受けに行ったんです。本部業務として業務課長、営業店での対応としての自分の2人でした。
が、それまで知識なんて全くない状態。

研修から戻って1ヶ月で、取扱い体制や事務体制を整えなければならなかったんです。
しかも、研修を受けたのは、営業店には私しかいない。
1ヶ月があっという間に過ぎて、何とか形は出来上がった状態でした。
当然、最初の受付担当者になるわけです。

 投資信託は当時、話題性もあって、人気の商品でした。
ただ取扱いは、本店営業部窓口だけだったんで、各支店がパンフレットで興味を持たれたお客様がいた場合、本店へ誘導し私が担当して販売を行う状況でした。
そんな日々が2年ほど続きましたね。30代後半、あの頃は本当に駆け回っていましたよ。

飯塚市中心商店街の「永昌会」、明治初期より続く伝統の歳末大売り出し

支店長時代に見つけた、町のために働く喜び

次の初支店長としての異動先稲築支店は、新店舗の立ち上げをやったところですね?やはり思い出深いところですよね。

正中:そうですね、開設委員、そして営業係で訪問していた先ばかりなので、よかったねと歓迎されました、新米支店長としては、とてもやりやすかったですね。
お客様はほとんど知っていたし、何をやるべきか考えた時に
 支店長は、業績を上げることが最大の役割だと自分なりに考えて行動しました。
実際に3年でそれなり業績を上げたと自負しています。
試行錯誤で毎年取り組む戦略を立て、支店長はプレイングマネージャーとして行動していました。
1年目は住宅ローンの肩代わり、2年目にはアパートローンの肩代わりや債権回収機構が放出する収益物件案内を興味ある方への提供、そして3年目には、介護保険制度が開始されたため、それにかかわる介護用品貸出し事業者への資金提案、グループホームや介護施設などの取組にも積極的に取り組みました。グループホーム施設建築資金応需は全店で第1号でした。

 しかしこの介護事業も、次の幸袋支店に異動する頃には、勢いが落ち着いていました。
次に待っていたのが、バブル崩壊後に厳しい状況が続いていた建設業の支援でした。
このころは、資産査定という考え方が浸透し、どの金融機関でもキャッシュフローを注視していたため、特に建設業者は厳しい時代でもありました。
毎月のように決算資金不足をいかに取り組むかという事です。毎日頭を抱えていました。
しかし、そうなると、もうこれ以上融資できないという場面もやって来ます。
そんな時、申し込み結果を告げに訪問するのはつらかったですね。
ある時、申し込みに対し、半分を家族からの支援で準備できれば、残り半分は支援するという場面です。 当然、親類からの支援は望めないと思っていたのですが、何とか準備でき残りを支援したことがありました。それで資金ショートを逃れたことがありました。
後で考えれば、仕事のやりがいですが、その時は、よかったと安堵感だけです。

そうやって一度底を見た会社が回復してくると、そこから先は長い付き合いになります。
本音でぶつかると、経営者からの信頼も増しますし、その瞬間が支援のやりがいを感じる瞬間でもありましたね。

幸袋支店での仕事以外のエピソードありますか

正中:会社の業務とは別に、ボランティア活動に関わっていました。
その一つが、町の文化遺産の保存運動です。

支店の近所に伊藤伝右衛門邸といって、かつて炭鉱王だった方の旧邸宅があるのですが、その維持管理が難しく、所有者が取り壊しを検討していたんです。
そこで地元の方々が「文化財として残してほしい」と立ち上がり、住民運動が始まりました。
私もその運動に、伝右衛門邸保存会の一員として参加していました。

もちろん会社には報告はしていましたが、あくまで個人的な活動です。
ただ、その伝右衛門邸保存会の月1回の会合には、地元有志の方が多く参加されていたため、その後の関係性を高めるのには大いに役に立ちました。

最終的に、飯塚市が邸宅を買い取ったのですが「観光資源として、どう活用していくか」。市としては、ボランティアの観光案内人の会を作ることを企画し、6か月かけて案内人を養成することになりました。保存活動をしていたメンバーの多くが、観光案内人養成講座に参加し40人ほどの人が資格証明書もらい観光案内を始めたわけです。私も一期生の一人です。

こうした観光案内人活動を通じて、仕事だけでなく、町とのつながりも自然と深まっていきましたし、地域への思いも一層強くなりましたね。

炭鉱王と歌人・柳原白蓮の恋物語で知られる伊藤伝右衛門邸。贅を尽くした国の重要文化財 ©福岡県観光連盟

やりがいは“窮地で出会ったお客様との強い繋がりから生まれる

お客様との関係の中で、特に嬉しかった瞬間や印象に残っているエピソードはありますか?

正中:幸袋支店の後、今度は穂波支店へ行くことになったんです。穂波支店は菰田支店から分家して、できた店舗ですので、以前から顔馴染みのお客様も多くいらっしゃいましたね。

その頃には、昔と違って状況の厳しい顧客にも少しだけ経営に対するアドバイスができるようになっていました。
例えば、多業種の事業をされて低迷期を迎えられている事業者等には、本業の改善に事業を集中させ、副業での賃貸物件などは手放してもらったり、経営の方向性について共に考えて相談しながら「こんな風にしたらどう」とかいろいろ提案していました。

金融機関には、債務者区分というものがあって、金融庁の基準に沿って、資産状況を5段階で評価します。正常から始まり、破綻懸念先、実質破綻先…と、返済や経営状況によって厳しく判断されるんです。

返済条件変更を何度も繰り返すと、破綻懸念先にランクが下がってしまいます。
そうなったらもう追加の融資は厳しくなってしまうんです。
 ランクダウンして破綻懸念先以下になったお客様には、努めてその事実を伝えるようにしていました。それは、事実を伝えて現状認識をはっきりさせることがとても重要であると思ったからです。
経営者の多くは、事業が不調であることを認めたくなく、いつか昔のように改善するのではと思う傾向にあるからです。
 また、このまま続けていたら、いずれ資金ショートして厳しくなることが予測されるような先には、早めに返済方法を軽くして、今ある資金を有効に活用し、事業の再構築を提案したこともあります。
しかし、利払いは最低限の責務ですから、これができなければ会社をたたむ覚悟を決めてください、と率直に話すこともありましたね。

そこから少しずつ利益が出るようになれば、その分を元金返済に回していく。そうして10年ほどかけて「正常」に戻せたお客様もいました。

こうした関係性を築けたお客様とは今でも繋がりがあります。盆暮にわざわざご挨拶に来てくださったり、本部に異動してからも、「今年もこんな決算ができました」と報告の連絡をいただいたりするんです。嬉しいですよね。

時間もかかりますし、根気が必要な支援ですよね?

正中:こういうお客様との出会いは、一生を通じて5人くらいだと思いますね。
立ち直る方もいれば、残念ながら破産される方もいる。
それでも一生の付き合いになるお客様が出てくるんです。

若い職員の中には、「今やっている仕事に、やりがいが感じられない」と言う人もいますけど、
金融業での「やりがい」というのは、窮地をともに味わって初めて、本当のやりがいを感じるものです。
だからこそ、「一生を通じて、5~6人ではないでしょうか」と伝えています。

 地元で働いていれば、たとえ店舗が変わってもお客様は近くにいます。
お客様も人間ですから、好き嫌いが出てくるのは仕方ない。
でも「この人とはやっていけそうだ」と思える人がいれば、その人には徹底して付き合ったらいいじゃないかと思うんです。

次の担当者は気が合わないと感じたら、お客様は前の支店長に相談することもできますし、 直接話に行くこともできます。もし次の担当者が良ければその人に相談すればいいんです。

だから、私たちにとって大事なのは、支店が変わったからもう関係ない、ではなく、その関係性を一生続けていくことだと思うんです。そういう積み重ねが強みになっていくんですよね。

つながりはエリアを越えて、世代を超えて広がっていく

これから取り組んでいかれたいことについてお聞かせください。

正中:これからは、店舗展開の調整と、人材育成に力を入れていきたいですね。
特に若手職員には、何をどう考えて行動するのかということを、丁寧に説明するようにしています。

結局、金融業という利益構造がわからなければ、預金を集めることは、いかに会社に利益をもたらすのか、預金という仕入れ原価いくらなのか、その根拠がわからなければ、自分で判断することができないですよね?
金利ひとつをとっても、根拠が理解できなければ、自ら考え、動ける人材には育ちません。
自分で判断ができないと、仕事は面白くならないんです。

逆に、自分で判断できるようになると、対応スピードも上がります。
この回答の速さが、飯塚信用金庫の大きな強みです。
だからこそ、自ら考え、意思をもって動ける人材になるよう、きちんと説明し、育成に取り組んでいます。

現在、全職員約200人の、4分の1が入庫5年生以下の若手です。
なので、3年生以下向けのコミュニケーションの場も設けています。

例えば、役員も参加する立食形式の交流会。
10分ごとに移動するルールを設け、全員が顔見知りになれるよう工夫しています。
顔がわかるだけで、相談のハードルがグッと下がりますからね。
部署が違うと、どうしても声がかけづらかったりするので、それも職員からは喜ばれています。

最後に、飯塚信用金庫さんならではの強みとはなんでしょうか?

正中: 大きくは3つの強みがあります。
① 組織がコンパクトであるから資金ニーズに対する決裁が早いこと
② 福岡市内にも古くから店舗展開していたこと
③ 協同組織の金融機関であること
です。

福岡エリアにバランスよく配置された支店網。写真は南区那の川に座す、福岡支店

① 組織がコンパクトなため資金ニーズに対する決裁スピードが早い事が強みの一つ目です。
本部組織は、飯塚市内にありますが、各営業店からの申し出や相談に対し、十分な資料がそろわなくとも、方向性を協議し課題は何かを見出し、対応する体制であることです。
社内では、レスポンスのスピードと表現しています。

② 二つ目は福岡市内にも古くから店舗展開していたことだと思います。
現在、福岡市内に3店舗、粕屋に1店舗を構えています。中心は福岡支店で、西に福岡地行支店、南に諸岡支店、東は粕屋支店と、バランスよく配置されています。これが今では功を奏しているんです。

といっても、戦略的に増やしたわけではなく、時代の流れが、背景としてあります。
元々、飯塚エリアは炭鉱産業で栄え、そこで仕事をしていた人たちが多くいました。昭和40年代ごろに炭鉱は閉山、商売を求めて福岡市内へ出て行く人も少なくありませんでした。
でも、当時は地元以外で資金を借りるのが簡単ではなかったんです
そこで、「ぜひ福岡にも支店を出してほしい」という要望が相次ぎ、昭和48年に、福岡支店を開設しました。 そうして今の4店舗体制となったんです。
今の福岡市は、拡大を続けていますので、当分の間は成長していくでしょう。

③ 三つ目は協同組織金融機関であることです。
協同組織金融機関ということは利益追求型の株式会社ではないという事です。
従って、窮地に陥った事業所であっても柔軟な対応が図れることです。株式会社であれば株主がいますので、経営効率や不良債権比率だの一定の基準を維持しなければなりません。しかし、信用金庫は、地域の代表者からなる総代組織であるため、内容をしっかり説明すれば理解を得られます。従って、窮地に直面している企業であっても柔軟な対応が取れるということが大きく違います。それが信用金庫の強みだと思っています。ましてや、職員は地元で育ったものばかりです。隅からすみまで知っています。この情報量が強みだと思います。

今後も、飯塚信用金庫のこのような強みを活かして、地域のために尽力して参りたいと思います。

◾️profile: 正中良樹(しょうなかよしき)/1955年生69歳。嘉麻市(旧嘉穂町)出身。1978年に福岡大学卒業後、入庫。稲築、幸袋、穂波各支店長、総務部副部長兼総務課長を歴任後2004年より役職。2023年6月より現職、7年ぶりの新理事長に就任。

著者情報

福岡のベンチャー企業「ラシン株式会社」が運営しています。福岡の中小企業、個人事業主さんの紹介を行なっています。

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