わが家は二人の息子が乳幼児時代、夫の転勤で4年間海外駐在をしていました。子どもを連れての駐在生活は初めてのことでしたが、私達夫婦にとっては2度目のアジア赴任ということもあり案外呑気な気分での着任でした。しかし、実際に生活を始めてみると夫婦のみor子連れ生活の差は大きく… さぁ、波乱万丈の初めての「子連れ駐在生活」の行方はいかに?
「なんとかなるさ~」で始まった2度目の駐在生活

長男が3歳、次男が生後半年の時に私達一家の海外駐在生活が始まりました。
南国の空港に降り立った時、重い湿気を含んだ熱帯の空気が全身を包んだあの感覚を、私は今でも昨日の事のように思い出します。深夜着の便だったため、子ども達は2台のベビーカーですっかり熟睡中。
子ども達と並行して着任用の荷物が何箱もあり、端から見るとかなり大変そうな日本人夫婦の図だったはず。ですが「国は違えど、アジア駐在は2度目だし…」という事実に支えられ、夫婦ともに悲壮感は漂っていませんでした。
ですが、実際はそう甘くはありませんでした…
波乱万丈の子連れ駐在生活の幕開け

実際に駐在生活を始めると、つまずきの連続でした。
駐在するためのアパートの空きが無く、ホテル暮らしを脱するのにまず1ヶ月以上。そして当時、子連れ南国生活の強い味方と言われていた「お手伝いさん」も人材不足で、なかなか雇うことができずにいました。これが途上国での乳幼児連れ生活を安定させない大きな原因になっていました。
「お手伝いさん」不在の最大の問題点は、母親1人で子守も家事も全てこなそうとするとタイパが非常に悪いということでした。例えば、渋滞を避けて早い時間帯に食料の買い出しに出ても、スコール(急な雷雨や突風)が来た途端にほんの10分の道のりが渋滞で2~3時間かかり、その後のご飯の準備となると時間的に厳しい。
また、口に入るものに水道水は使えないため、定期的に水のボトルをオーダーしていても
「忘れた」「スコールがきたから」と3日程連絡がつかず放置されるのもざらで、「時間と予定の見通しが立たない生活」というのが実感でした。
そのため1日でも早く「お手伝いさん」を雇い、子ども達のためにも時間的に余裕のある生活を送ることが切実でした。
華麗なる駐妻生活からは程遠いが…

お手伝いさんが見つかり、ようやく生活が落ち着いたのは着任して1年が過ぎた頃でした。
子ども達のインターナショナルスクールの在校時間は短いので、私自身は駐在前に思い描いていた「素敵なホテルでのアフタヌーンティー」や「駐妻らしいご当地のお稽古」「安価にエステ三昧」などとは無縁な 「子ども中心」の生活でした。
しかし、水泳やバイオリン・英語などの様々なお稽古を手頃な費用で掛け持ちできる当地の利点を活かし、子ども達にはより良い教育環境を整えることができました。子ども達にとってのお稽古は、娯楽の少ない国でのレクリエーション的な存在も兼ねていて、あらゆる世代・国籍の先生達との交流から、スキルだけでなく社交としても楽しんでいました。それらの経験を通して、文化的・宗教的背景からくる習慣の違いも自然と学び、子ども達は日・英・現地語を完全に使い分けるまでに成長していました。
私も子ども達の学校で、各国が出店するチャリティーバザーのお手伝いをしたり、子どもの現地生活に便乗する形で「駐在母生活」の方は予想以上に充実してい ました。
バラ色「子連れ駐妻生活は夢のまた夢」だったのか?

帰国して12年が経った今でも、時々駐在当時を思い出します。
ご当地ならではの子どもの怪我や謎の病気などにも悩まされ親としては気が休まる時がありませんでしたが、今となっては「終わり良ければ全て良し」と感じています。幼少期に多文化共生生活を送ったおかげか、子ども達は今でもあらゆる「多様性」に対して寛容であるのを感じます。
結果的には、「バラ色子連れ駐妻生活」改め「ドタバタ子連れ駐妻生活」とした方が良さそうな生活でしたが、その時に感じたことや思い出やスキルは目には見えないけれど、私たち親子の内面にたくさんの華麗なる花を咲かせたように思います。
そのように考えると、私の夢の「駐妻生活」は叶ったのかもしれません。
(ファンファン福岡公式ライター/駐妻日記)


