“ブログ内コラム”「せがれから見たラーメン屋という稼業①」【久留仁譲二の小市民だより】

 こんにちは、きょうも大欲なく、チマチマと過ごす久留仁譲二です。

 いつもなんということもない日常ばなしを書いてて、読む人も少ないと思いますが、たまには変化をつけたく、「元ラーメン屋のせがれ」という立場から見た「ラーメン屋という職業、その立ち位置や内情」みたいなことを不定期につれづれに書き連ねたいと思います。「元」と書いたのは、親がすでに店をたたんでいるからです。

 写真もほぼない殺風景な文章ですが、時間と興味のある方は読んでみて下さい。

 手始めに、ほぼ四半世紀前の開店時のことを書きます。

写真AC ※写真はイメージです
目次

第1回「脱サラでラーメン店開業」

  最初は一杯190円

 いまどきはラーメンといえども、一杯700円、800円あたりまえ。下手すると千円を超えたりもします。

 父が福岡市西部の郊外に開店した1975年、最初の値付けは一杯190円でした。えらく安いと思うでしょうが、当時、周辺のラーメンはだいたい一杯180円くらい。10円とはいえ相場より高くするとは、新参者らしからぬ強気です。理由は聞いたような気もしますが、忘れました。

 6軒が3軒に分かれて向かい合う新築の”飲食店舗長屋”という物件の一角に店を構えることになりました。

  会社員をやめ商売人に

 父はその一年前まで会社員でした。会社の業績が思わしくなく、同僚に退職を奨める部署にいたこともあり、「このままでは先がない」と思い切って辞めることを決めたそうです。限られた退職金と親きょうだいなど身内からの借金を元手に未経験の商売に乗り出しました。「脱サラ」を煽る世の風潮に押された感もありました。

 食いしん坊で、休日には来客に手料理をふるまったりしていた父。中でも中華が好物でした。ラーメン屋への転身は自然にも思えますが、実は最初はうどん屋を考えていました。私も「うどん屋をやるつもりだ」と聞いてました。中学生の私には、外食としてはうどんよりラーメンになじみがあり、「何でうどん?」と思ったものです。

 いつのまにかうどんからラーメンになっていたのは、ラーメンの作り方を教えてくれる人が見つかったことによる方針転換でした。「やっぱ、うどんよりラーメンだよな」と少しほっとしました。

  1年かけた開店準備

 会社員時代の父は運転免許を持ってませんでした。ラーメン屋をやるとなると、仕入れなどに車があったほうが便利ということで、退職早々、喜々として教習所に通い免許を取り、車も買いました。忘れもしない「サンドベージュ」という色の”新型コロナ”です。今思えば商売にはライトバンのほうが良かったような気がしますが。

 それよりなにより、料理好きとはいえ、とんこつラーメンなど作ったことありませんし、巨大な釜で大量の豚ガラを高温で炊き上げるわけような離れ業をわがものにするのは簡単ではありません。家で食べるものを作るのと、お金を払ってもらったお客さんに満足のいく食事を出すのは大きく違います。「師匠」のもとに半年ほど通い詰め、とんこつスープの作り方、麺の上げ方、味つけなどを大急ぎで詰め込んだのです。わが親ながらその集中力には頭が下がる思いです。不安の一方で新しい世界で生きる高揚感も助けになったところもありそうです。

 背水の陣というやつですね。借金した親きょうだいからは猛反対されたし、直接ではないにしろ「どういうつもりか」とののしられてましたから。うちの家系はほとんど地道な勤め人で商売、まして浮き沈みの激しい飲食をやってる人はいなかったので、それは心配したと思います。

 まあとにかく、「師匠」という専門家のアドバイスを受けつつ、大釜の据え付けなど店舗のしつらえや店名を入れたどんぶりの作成、保健所への届けなどもろもろの準備を一年がかりで終え、巨大なカウンターだけの14席と小さいながらもまっさらのお店、赤い看板、赤いのれん、赤いテーブルとおめでたい”赤づくし”で、1975年12月開業しました。

つづく

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※この記事内容は公開日時点での情報です。

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著者情報

米国の本家と同い年のシニアブロガー。毎晩長いときは30分に及ぶ歯磨きを欠かさない。最近覚えたメルカリへの出品にはまっている。
17年乗った作業用の軽トラックをカッコいいカーキ色の新車に買い替えた。

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