賢者は歴史に学ぶってよ。林田的「福岡が生んだ三大偉人」考

FBS「めんたいワイド」やTNC「CUBE」など、福岡ローカルでひっぱりだこのコメンテーター・林田暢明さんが、フクリパにコラムを寄稿してくれました。一部の地域を除き緊急事態宣言が解除されたとはいえまだまだ自粛生活を余儀なくされているこんなときだからこそ、今一度福岡の歴史的魅力について考えてみませんか?林田さんの知力あふれる筆致は、あなたのインテリジェンスを刺激すること間違いなしです!

出典:フクリパ
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福岡の三大偉人

もはや国際情勢的にも国内情勢的にも、待った無しの大一番の様相を呈してきたのですけれども、そんな中、いつもの活気は鳴りを潜めて福岡の街もぼくも一人静か。かの世阿弥が書き下ろしたというのが二人静。どうせ静かにするのなら、一人よりも二人がいいよね、静御前はどこいった、なんてことを思いながら、この如何ともしがたい環境の中で悶々としておりましたら、おい林田よ、暇なら福岡のことについて書いてみな、って言う偉い人がいたもんでね。いっちょ筆をとったところなのであります。 とまれ枕が長くなる癖があるので、早速本題なんですけれども、さぁ皆さん、福岡が生んだ三大偉人っていったら誰かわかりますか?

〈考えました?思い当たる人います?〉   〈もういいですか?言っちゃいますよ。〉   〈そろそろタイムオーバーですよ。よろしいですか?〉

 それでは正解です。福岡が生んだ三大偉人とは、ずばり森田一義と神屋宗湛(かみやそうたん)、謝国明(しゃこくめい)の3名なのであります。えぇッ、聞いたことない?さもありなん、何を隠そう純然たる主観に基づいて、ぼくがいま言い切ったことなのですから。でも森田一義はわかりますよね。a.k.a. タモリ。その芸のクオリティー(彼は元々パフォーマーだった)、知性、果ては人間性までも、その実力は日本国民全員が認めるところなのであります、メイビー。  しかしながら、この福岡、博多の伝統の中から生まれてきた天才タモリの知名度に比して、その伝統の礎となった他方の天才たちがあまりにも世に知られなさすぎではないかとぼくは憤ってるわけですよ。ばんッばんッ(机を叩く音)。そんなわけで、これから福岡が生んだこの天才たちのストーリーをベースにしつつ、これからの福岡の話を考えてみたいと、まぁ、そういうことですので、しばしお付き合いください。

日本三大都市の雄、福岡

少し話がそれるんですが、福岡に来てその辺を歩いている人に「日本三大都市と言えばどこでしょう?」と訊くと、かなりの確率で「東京、大阪、福岡」と答えてくれるんですね。「おいおい、なに言ってんだよ、チミィ」とドヤ顏で質問を出した人が「東京、名古屋、大阪だよ」と答えを教えて「へぇー」となったりします。実はこれも誤りで、法定人口ベースでいう日本三大都市とは「東京、横浜、大阪」です。名古屋は約40万人差で4位。全てプロ野球セ・リーグのチームの本拠地であり、セ・リーグ人気が大都市圏に住む多くの人たちによって支えられてきたのだということがよくわかります。

出典:フクリパ:2015年 国勢調査

ところが、実は福岡にも、明確に、圧倒的に、まごうかたなき日本三大都市であった時代があるんですね。室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集である「廻船式目」に、日本の大きな港町として三津七湊(さんしんしちそう)が紹介されています。津も湊も「港」の意味ですが、津は特に大きな港のことを指しています。 同書に曰く、三津とは 安濃津 ─ 伊勢国安濃郡(三重県津市) 博多津 ─ 筑前国那珂郡(福岡県福岡市) 堺津 ─ 摂津国住吉郡・和泉国大鳥郡(大阪府堺市) のことで、ほらッ、みんな大好き博多もバッチリ入閣しております。安濃津については、アレっと感じる方もいるかもしれませんが、三津の筆頭に挙げられていて、それはそれは大きな町であったらしいだがや。しかし大津波で壊滅的な打撃を受けて衰退してしまったらしく、場所も今の三重県津市かどうかすら怪しいのですが、この話を始めると取り返しがつかないことになる気がするので歯を食いしばって立ち止まりたいと思います。

確かに存在した環日本海経済圏

ちなみに七湊をみてみると三国湊(福井県坂井市)、本吉湊(美川港)(石川県白山市)、輪島湊(石川県輪島市)、岩瀬湊(富山県富山市)、今町湊(直江津)(新潟県上越市)、土崎湊(秋田県秋田市)、十三湊(青森県五所川原市)と全てが日本海側の町で、後に江戸時代になると北前船として北海道で取れたニシンを大量に運んで大儲けします。  でもよく考えてみると、江戸時代に北前船の航路ができたのは、それ以前にすでに三津七湊の素地があったからなんですよね。ではなぜ三津七湊は発展して、そのように呼ばれるまでに栄えたのか?それはこの時期よりもっともっと昔から、日本人が大陸と交易してきたからなんですね。そして、その代表格がなんといっても謝国明なわけです。  謝国明はその名を一目みてわかるように、今でいうチャイニーズ、南宋の人です。この日本史上に突如として現れる大商人は、極貧の中で生まれた叩き上げというわけではなく、おそらく生まれ故郷の中国でも相当な財力を有していた商人だったはずです。きっと当時、貿易港として栄えた福建省あたりに住んでいたと思います。

出典:フクリパ:謝国明の肖像は、謝国明のお墓の案内板にあります。確かに中国人っぽいですねぇ。

ではなぜ、そんな豪商が日本に移住してきたのでしょう。それはもうね、モンゴル帝国が日の出の勢いで攻めてきていますから、謝国明のみならず、情報入手が早い知識階級や商人たちはこぞって日本に避難してきたんですね。高校時代に日本史を選択していた人は記憶に残っているかもしれませんが、鎌倉時代は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)やら無学祖元(むがくぞげん)やら中国から高僧がやってきました、ありがたや、といって覚えさせられますね。一休とか雪舟とかを見習って、お前らの名前もうちょっと、どうにかならんのかいッと試験前に突っ込んだ青春時代。あれ実はね、アイツらね、逃げてきたんですよ、日本に。

 知識階級はもう逃亡ですから、一番安全な鎌倉のお寺に引きこもっていればよかったんですが、謝国明のような商人はそういうわけにもいきません。なにせ故郷の中国にもお店がありますからね。福建と日本を行ったり来たりしながらビジネスは続けていかなければならない。そこで謝国明が選んだのが博多だったわけです。おそらく謝国明以外にも相当数、こういう商人たちは存在したはずで、博多の町は中国マネーだけでなく移住者も取り込みながら、経済力だけでなく文化的にもその地力を上げていくんですね。  やがてモンゴルは日本にも軍を派遣します。元寇ですね。これは仮説ですが(ずっと仮説だけど)このとき謝国明は博多の海賊だけで太刀打ちできないもんですから、日本中の海賊を引っ張り出してきて元の船を迎え撃つんですね。NHKの大河ドラマ「北条時宗」では、謝国明の配役は北大路欣也さんでした。こりゃすごい大物ですよ。なにせ北大路欣也ですから。福岡の人は誰も知らないけれど、史上初の連合艦隊は、謝国明によってこのときに誕生したわけです。

出典:フクリパ:謝国明のお墓は博多駅前1丁目にあります。耳に残るCMが記憶に懐かしい「龍龍軒」の近くです。
出典:フクリパ

華ひらく博多の文化と神屋宗湛

 ちなみに、この時期に謝国明が持ち込んだのが「蕎麦」で、福岡の人が「実は博多が日本の蕎麦発祥の地だ!」とか言っちゃえるのもこの人のお陰なんです。さらに妄想が許されるならば、きっと最初は蕎麦粉ではなく小麦粉で打った中華そばを出していたのではないでしょうか。もしそうだとすると、博多ラーメンの元祖だとも言えます。ぼくがラーメン屋を出すとしたら、店名はぜったいに「元祖 謝国明」にします。失敗しそうだなぁ。  さて時代は下って戦国時代。博多の町はどうなっているかというと、このときには中国との貿易だけでなく沖縄をも中継基地にして東南アジアにまで出張してますから(倭寇)、ンもう史上空前の盛り上がりを見せているわけです。  羽柴秀吉っていう武将がいるんですけれども、そう、後にホトトギスを啼かせちゃう太閤 豊臣秀吉です。彼がまだ下積み時代に「筑前守」を名乗るんですね。筑前とは福岡のことです。このとき織田信長の天下統一がかなり進んでいて、自由に官名をもらえる瞬間があったんですが、秀吉は迷わず筑前守を選びます。これはとりも直さず福岡を統治する官職に就けば、博多の税収が入ってくることが見込めたからなんですね。後に天下をとる秀吉の目から見て、福岡はそれくらい魅力的な経済都市だったんです。

出典:フクリパ

奈良屋町にある豊国(ほうこく)神社は神屋宗湛の屋敷跡。豊臣秀吉に厚遇された恩義に報いるべく、宗湛は早くに秀吉の霊を屋敷内に祭ったそうです。

出典:フクリパ

 ちなみにライバルの明智光秀は勤王一筋の真面目な人だったので天孫降臨伝説のある宮崎が欲しいといって「日向守」を名乗ります。二人のその後の明暗は、このときの蓄財の差と言えなくもないかもしれません。  このとき博多商人で一番の実力者だったのが神屋宗湛です。この人は大商人であるとともに大茶人で、千利休の亡き後、その後継候補の筆頭だった人です。秀吉の九州征伐に資金提供したり、朝鮮出兵のときもロジ(ロジスティクス=物流とその管理のこと)を一手に引き受けたりと、かなり貢献したので博多商人たちは自治権を与えられます。この時期、公式に自治権があったのは堺と博多だけなんですけれども、堺が千利休が尖りすぎて自治権をボッシュートされたのに対し、博多商人たちは江戸時代に入ってからも、その特権が認められます。  ですから、博多商人たちの祭りである博多祇園山笠は、本当にごく最近まで中洲の川を渡って黒田藩領である天神にはやってこなかったんですね。いわゆる「博多部外」に飾り山や集団山みせが行われるようになったのは1962年(昭和37年)になってからのことです。ちなみに700年以上の歴史を誇る山笠ですが、かつては京都の祇園祭のように、おしとやかに飾り山の美しさを競うお祭りだったようです。江戸時代の1687年、土居流が東長寺で休憩中、石堂流(現在の恵比須流)に追い越されるという事件があり、そこから抜きつ抜かれつのマッチレースに発展して追い山となったのじゃそうな。

 華美で、粋で、ちょっと荒々しくて、でもどこか愛嬌のある博多の文化というのは、神屋宗湛に端を発していると考えて良いと思うんですね。ちなみに神屋宗湛が博多に建てた文琳庵という茶室を復元したものが、博多駅裏のクリオコートホテルの5階に復元されていますので、機会があれば是非ご覧になっていただければと思います。

アフターコロナの世界、シティーの限界と再考

 こうした伝統と文化のその管の先に、タモリという天才が生まれたのだと。完全にこじつけのようですけれども、少なくともぼくは本当にそう信じているのであります。ところで、こんな軽い文章を綴っている間にも、世間はコロナの状況に沈んでいっているわけですけれども、巷では、第二波がくるだの、沈静するには1年かかるだのといろんなことが囁かれています。  個人的には、今回のコロナ騒動は一年も続かずに短期で収束していると感じているのですが、切り口を変えてみると、この状況はずっと続く、もっというと5年に一回くらい起こるようになる予感がしています。その根拠としては、世界的にみるとやはり中国を世界の工場として回りつつあった資本主義の構造に対する反省がやってくると思うんですね。こんな状況にしやがって、何してくれてんだ、というアメリカ、イギリス、フランスを筆頭に西欧諸国がすでに中国の責任を追及する姿勢を見せていますが、そうした政治的態度を脇に置くとしても、資本や生産手段を一極集中させてしまうことが未知なる感染症との戦いに弱い、という根本問題が露呈してしまったのです。

出典:フクリパ

 当然、アフターコロナは中国から資本を分散させようという各国の動きが起こってくると思うのですが、現段階で、これまでの資本主義の構造を中国の代わりに担ってくれる、すなわち人件費が安く、投資効果が高い地域は地球上にアフリカしか残っていません。そしてアフリカに資本が集まり、かの大陸の人々が真の意味で生産手段を持って豊かになり、世界中を旅行するようになると、新型コロナなんか比にならない新しい感染症がパンデミックを起こすリスクも出てくるわけです。とまぁこの話は別の稿に譲るとして、こうした世界的な資本主義の構造の見直しが少なからず国内にも影響を与えていくことになるでしょう。  新型コロナにとどまらず、気候変動と多発する自然災害の時代。超満員電車に揺られながら会社までドアツードアで1時間、みたいなライフスタイルも持続可能とは、到底、思えなくなってきます。またそもそも指摘されていた東京一極集中の問題も、実際はそうはなりませんでしたが、東京がロックダウンする可能性を目の当たりにした時に反省した人は多いと思います。  こうした状況から「シティーの限界」を唱える人も散見されるようになりましたが、ぼくはシティーがなくなる、とまで論じるのは極論すぎるだろうと感じています。ジャレド・ダイアモンドが言うように、シティーは人類が進化していく過程で持ち得た最大の発明であり、また、コレラやペストなども乗り越えて来たわけで、zoomでオンライン会議や飲み会をするから農村部で一人密やかに暮らす、というライフスタイルに憧れる世捨て人のような人は増加すると思いますが、それがメインストリームになるとは考えにくい。そう、忘れてはならないのは、我々が社会的動物だということです。

出典:フクリパ

東京一極集中が本格的に解消されていき、かつシティーの機能は残しつつ、グローバルに戦うとしたら、いったい日本のどの都市に優位性があるのでしょう。そんな思いが心に去来するとき、ぼくは福岡に蓄積されてきた知られざる歴史に胸が熱くなって悶えてしまうのであります。 文=林田暢明

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