布団といえば、軽くて温かい羽毛布団、羊毛布団を思い浮かべがち。でも忘れていませんか、お日さまに干したふかふかの木綿のふとんのぬくもりを。福岡生まれの「おたふくわた」は、福々しい絵柄がトレードマーク。輸入布団に押され、市場から姿を消した時期もありましたが、見事に復活し、改めて注目されています。今回は、フリーライターの永島 順子さんがハニーファイバー株式会社を取材しました。
「おたふくわたは、過去のブランドです」。ホーロー看板マニアの言葉に火が着いた。
木綿ふとんには縁遠くとも、このマーク・絵柄には遠い記憶がよみがえり、何かしら郷愁を抱く人が多いのではないだろうか。ふっくら丸顔に垂れ目、かわいらしい丸鼻の「おたふく」。
「おたふく」を商標とする木綿布団「おたふくわた」は江戸末期の1840年創業。輸入輸出が盛んになった1970年代にハニーファイバーと社名を変え、一時期は全国5工場を有する寝具メーカーのトップ5の1社だったが、時代の波にのまれて現社長・原田浩太郎さんが大学生の時に寝具業から撤退。創業家の生まれながら、浩太郎さんはサラリーマン生活を送っていた。 業務の合間にふと「おたふくわた」を検索した浩太郎さんの目に飛び込んできたのは、ホーロー看板のマニアのページ。都会の商店街にも小さな町、村、田んぼの横にも。日本全国、至る所で見られた昭和の懐かしい風景の中に「おたふくわた」の文字と図柄の看板はあった。しかし、浩太郎さんがショックを受けたのは、そこに記された「おたふくわたは、過去のブランドです」の言葉だった。 確かに、生産はしていない。しかし、寝具業から撤退したハニーファイバーは、「おたふくわた」の商標権を死守していた。
浩太郎さん: 「過去のブランド!? まだ名前は生きている。生き返らせることもできるはずだと思ったんです。」 これが、復活の最初の着火点だった。
「おたふくわた、復活させます!」。創業180年のブランドの再起を仏壇に宣言
博多の原田家は、もともと江戸期の種油商。食用原油や燃料などの原料となる綿花の「実」を売るのが本業だ。そこで、不要とされていた綿の「繊維」部分に目を付けた次男が独立、綿花の仲買や、わた・ふとんの加工販売を始めた。 「おたふくわた」と名づけたのは、2代目の原田重吉。アメノウズメの舞で天照大神が天の岩戸を開き、地に再び光が差すこととなった「おたふく伝説」に、ふっくらした綿のイメージを重ねたとされているが、もう一つ、地名にまつわる由来がある。 浩太郎さん: 「 明治22年の市制施行時、「福岡市」か「博多市」かと市名を巡って世論が二分され、議長の1票で「福岡市」となり、駅名に「博多」が残されました。 この時のいがみ合いに心を痛めた重吉は、博多の「多」と福岡の「福」をあわせた「おたふく」に、人々の融和の思いを込めたと言われています。」 その後、英国から紡績機械を輸入して工場の近代化を進め、戦時中には大陸進出、戦後は戦災者向けの再生ふとん綿で製造を再開。「ハニーファイバー」と社名を変えてからは商品も販路も拡大し、東京進出を果たして名だたる寝具メーカーとなっていた。 しかし、次第に混紡製品や羽毛布団が普及。中国からの格安羽毛布団の大量流入などにより、業界は価格破壊の波にさらされる。浩太郎さんの父、5代目憲明氏の早世もあり、会社は経営危機に。1997年、寝具業から撤退、自社所有ビル・マンションの賃貸管理を行う小規模な企業として存続することとなった。 一方、会社勤めでそれなりの業績を挙げ、自信を付けた浩太郎さんは4年後、独立起業を考えた。が、ネット上の「過去のブランド」に反発しながらも、「おたふく」ブランドは重荷だったのか。当初、目指したのは当時流行のイタリアンレストランだった。 浩太郎さん: 「修業先のレストランも決まり、あすは会社の送別会という前夜、亡き親父に報告しました。すると、仏壇の前で数時間、立つことができなかったんです。遺影の父が怒っているようで、涙が止まらなくて……。」 そして、宣言した。「おたふくわた、復活させます!」
「復活プロジェクト」始動。木綿を知るために全国の工場、職人を訪ねて旅を続ける。
復活へ踏み出すに当たって浮かんだのは、解雇した300人以上の社員の顔だった。 浩太郎さん: 「苦労を重ね、涙の決断で社を去っていった人たちに、愚息の思いつきの道楽なんて許しがたいでしょう。だからとにかく木綿布団について勉強・研究するとともに、関係者を訪ね、まずは話を聞かせていただこうと思ったんです。」 同世代の業界紙記者とともに、かつての下請け工場や生地メーカー、伝説の職人などを訪ねては、枚数など予測できない「おたふくわた」を独自の配合で再現してくれる工場、職人を探し求めて回った。 本物の木綿ふとんを求めて全国を旅する浩太郎さんの本気度が伝わったのだろう。OBたちも応援してくれた。人づての紹介や幸運な巡り会いを重ねて2年後、手作り木綿わたふとん「おたふくわた」が完成。ネット販売を開始したが、親戚・身内を一回りすると動きは止まった。 ここから、サラリーマン時代に培った「足で稼ぎ、口で売りまくる」営業力の勝負が始まった。
「しつこいと思われてなんぼ」。ストーリー、キャッチを考え足で稼ぐ。
自分でストーリーを考えてキャッチコピーをつくり、独自のチラシを手に、いくらうるさがられてもひたすら通い続ける。それが浩太郎さんの営業スタイルだ。 浩太郎さん: 「まずは知られることから。「ついに!」「待望の博多の老舗が復活!」などとうたったプレスリリースをつくって雑誌社の訪問です。 郵送では大量の郵便物の中に埋もれて捨てられますから。とにかく足を運ぶこと。スーツにビジネスバッグと布団を抱えて。この異様ないでたちが、結構おもしろがられることもあるんですよ(笑)」 1年かけて60~70社回るうちに、雑誌の「サライ」や「家庭画報」に取り上げられ、少しずつ反響を呼び始める。次は、この記事を手に百貨店めぐり。 浩太郎さん: 「綿ふとんはメンテナンスしないと、蛍光灯で色焦げし、湿気でへたってくるため、売場では敬遠されがち。さらに、売場ではメーカー派遣のスタッフが「木綿は重くて体に悪い」と木綿布団を求める客にも自社の羽毛布団を勧める始末でした。」 そんな体験を踏まえて挑んだのは、あえてハードルが高い日本橋の人気百貨店のカリスマバイヤー。順番待ちで、ほんの数分しか会えないが、本物を見極める目は確かなプロのもとに2年間ひたすら通い続け、「もう駄目か」と思った矢先に、「やってみるか?催事を」と声をかけられた。 後日、「どうして、僕にやらせてみようと思ったんですか?」と聞いてみると、「いや、とにかくしつこかったもんな」と苦笑された。 いまや営業もオンラインの時代。しかし、浩太郎さんは「時代が変わろうとAIが進もうと、人の顔を見て話すコミュニケーションが最強」と固く信じている。それは会社員時代のクレーム対応で身をもって学んだことでもある。「電話やメールで済ませるな! そんなヒマがあれば、すぐ行け!」と、常に社員たちを教育している。
人が「あっ」と驚く切り口からアクションを。「縁故」は決して悪くない
その後、高級シティホテルのスイートルームに「おたふくわたふとん」を常設した「多福の間」を誕生させたり、マドンナに「坐禅ふとん」を贈ったり、島田洋七プロデュース「がばいざぶとん」を販売したり。突拍子もない販促アクションを次々と展開していった、 浩太郎さん: 「あっと驚く、人が考えないような切り口から営業努力を続けました。もちろん、いろいろな方々のご協力あってのこと。私は「縁故」って決して悪いものとは思わない。大切にしています。」 「サライ」でできた小学館の縁から生まれた「のび太のお昼寝座布団」(ドラえもん)は大ヒット。さらに、今年はコロナ禍で外出頻度が減り、自宅でくつろぐ時間が長くなったためか、ごろ寝ができる三つ折りの長座布団や、半纏などの売れ行きが好調だという。
父が主に東京で営業展開していたため、浩太郎さん自身は東京生まれで、福岡で暮らしたことはない。復活プロジェクトも東京から始まり、その後、福岡の百貨店に“凱旋”した格好だ。 浩太郎さん: 「博多で生まれ、育ったブランドであり企業。福岡あっての「おたふくわた」です。本社を移すつもりなどまったくありません。」 2012年にはアメリカ進出。ニューヨークにオフィスを置き、年に一度、大学で綿や綿ふとんの歴史の講義も行っていた。コロナ禍で難しくなったため、新たな手法での海外販売を検討中だ。 「羊(羊毛布団)の上、鳥(羽毛布団)の下で寝る」のではなく、「木綿に包まれて寝る」快適さを海外にも広く伝えていきたい。それが、福岡生まれのブランドを東京で復活させた9代目の野望である。
ハニーファイバー株式会社
■創業/1840年 ■住所/福岡市博多区博多駅東2-2-2 博多東ハニービル ■電話/092-431-5231