福岡グルメ小説“N氏の晩餐”/天神「達」のビーフシチュー

職場の飲み会から帰宅してシャワーを浴び、髪を乾かしながらテレビをぼんやり見ていた金曜の夜、母親から電話が入った。 聞けば父親の定期検診の結果が過去最悪だったとのこと。四十年間勤めた会社を三年前に定年退職し、以来、父親の一番の楽しみといえばご近所の顔なじみや退職した会社の元同僚との飲み会。一年前に体調不良を訴えて検査して以来、コレステロールの値の横には「H」の文字が常に刻印され、心配する母親の心とは裏腹に「わかっちゃいるけどやめられない」の日々を送っているようだ。

出典:ファンファン福岡

その翌日、私は百道浜にいた。昨夜、母親からの電話を切ったあと、何となく気になってコレステロールについてスマホで調べてみようとしたものの、LDLだかHDLだか横文字も入り混じる文章がだらだらと続く小さな画面にうんざりして、ここならわかりやすい専門書もあるだろうと、市の総合図書館まで出向いてきたのだ。 医学関係の書棚の前に立つと、あるわあるわ。「コレステロール」という文字がタイトルに入っている本がざっと見ただけで三十冊。日本中でコレステロールに悩んでいる人が相当いるんだな、と驚きながら、並んでいる本を片っ端からめくっていくと、高コレステロールの対処法として書かれているのはどの本もだいたい同じ。規則正しい生活に適度な運動、そして栄養バランスのとれた食事。 外に出て、さっそく父親の携帯に電話をかける。「わかった、わかった」を繰り返す父親との半ば不毛な会話を切り上げ、ため息をつきながらスマホをバッグに仕舞おうとしたそのとき、掌の中から軽やかな音楽が流れてきた。画面を見ると“N氏”の表示。月一の“美しき食友”からのお誘いだ。

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翌週火曜の夕暮れどき、約束の時間の五分前にN氏ご指定のお店の扉を開けた。天神三丁目の渡辺通りに面した細長いビルの地下にある洋食店「T」。こじんまりとした佇まいだが、雰囲気がとても洗練されていて、それでいて家庭的な温もりのあるお店だ。すでに、一番奥の二人掛けの席にN氏が座っていて、お店の女性と親しげに話を交わしている。 グラスビールで乾杯。 前菜、スープ、魚料理が続き、ワインも白から赤へ。 ボルドーの赤がグラスに注がれたとき、福岡市とボルドー市が姉妹都市だという話になった。コレステロールの知識を仕入れた後、ぶらりと歩き回った図書館の二階に姉妹都市・ボルドーを紹介するコーナーがあったのを思い出した。 N氏によると、ボルドーというのは、フランス南西部を流れるガロンヌ川という大河の河口に位置する港町で、その街の形成は紀元前にさかのぼるそうだ。歴史が深い港町。まさに福岡の歴史とそっくり。大陸の東西にある二つの“美食と美酒の都”なんて何だかロマンチック。それにしてもN氏は何でも知っている…。そんなことをとりとめもなく考えているうちにメインの肉料理が登場した。

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とても美味しそうな色と艶(つや)のビーフシチュー。デミグラスソースの香りが鼻孔をくすぐる。 N氏に倣って、半分は赤ワインで、もう半分はライスと一緒に。ご飯とも絶妙に合う! N氏との会食ではお馴染みとなった、正統派デザートをいただき、渡辺通りに続く階段を上ると、来たときは明るかった渡辺通りに夜の帳(とばり)が降り、行き来する車のヘッドライトとテールライトが街を彩っていた。

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スマートにタクシーを拾って颯爽と去っていたN氏を見送りながら、私はつぶやいた。 「規則正しい生活に適度な運動、そして栄養バランスのとれた食事」 明日は早起きして、久しぶりにウォーキングでもしてみるかな。そんなことを思いながら、私は地下鉄の駅に向かって、天神地下街の階段をゆっくりと下っていった。

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