『西郷どん』最期の戦い11 官軍が鹿児島に乗込んだ

西郷隆盛の生涯を描く大河ドラマ『西郷どん』。その最期の舞台となるのは、51歳の生涯を閉じることになる「西南戦争」だ。九州が戦場になった「西南戦争」を福岡の人たちはどう受け止めていたのか。 140年前の新聞を元に『西郷どん』の最期の戦いを再現してみよう。

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筑紫新聞カルトクイズ10

福岡の乱の処罰者報道は、次の「筑紫新聞第17号」(明治10年5月13日)以降は、住所を省略して名前の掲載だけにしてしまう。その理由は何だったのか? (1)処罰者に身内がいて特定できないようにした (2)住所の情報が不正確なことを知った (3)印刷所の嘆きを知り名前だけにした

答えは、(3)印刷所の嘆きを知り名前だけにした、でした。

出典:西日本新聞社

印刷所の作業者の嘆きを知る

 名前だけでピンと来る人は少ないので、どこの誰が処罰されたのか、読者が理解するためには、住所と氏名が必要だった。  だが「筑紫新聞」は、住所の記載を諦めざるを得なくなった。  連日の報道に、印刷所の文選工(活字を拾う職人さん)が音を上げたからだ。  「筑紫新聞第17号」(明治10年5月13日)に、こんな記事がある。  「第16号を印刷する時に、活字拾いの者が…アア、処罰される士族が多すぎるので困る、とっても困る…しきりに声をあげていた」  職人さんが、反乱に関与した士族があまりに多いので、社会不安だとして嘆いていたのかと思ったら、そうではなかった。  「筑紫新聞」は、金属の活字を集めて原稿を作り、活版印刷していた。同じ文字を大量に使えば、使う数だけの活字が必要になる。設立したばかりの「筑紫新聞」には準備している活字の数に制約があったのだ。  「筑紫新聞第16号」に出現する「士族」の字は68回。「族」の文字だけでは71回になる。活字が不足してしまい、文字を組むことができなくなるのだ。  パソコン編集して印刷する現代には想像もつかないことだが、活版印刷の時代は、相当量の活字を準備しておかないと、活字不足から記事を組めない、という現象も起きた。

官軍が海から上陸し鹿児島を占領

 明治10年5月に入ると、西南戦争の行方は、官軍の圧倒的優勢となっていた。薩摩軍は熊本県北部から敗走し、追撃する官軍に追われて、主力が熊本県南部で持久しつつ、活路を開こうと大分県、宮崎県方面に戦いを挑む。  その頃の薩摩軍と鹿児島県の状況を「筑紫新聞第19号」(明治10年5月22日)が、「鹿児島近況」と題して伝えている。  「薩摩軍の将軍、別府晋介(※城山で西郷どんから頼まれて介錯することになる)らが鹿児島に戻り、新兵1500人を集めて八代口に向かった」  死傷者が続出して兵員不足を補うために、兵士を追加募集したとの記事だ。  一方、官軍は海上輸送力を背景に、薩摩軍の根拠地・鹿児島に逆上陸した。  「4月25日、河村参軍と第1旅団の高島鞆之助少将(※後の陸軍大臣)、第5旅団の大山巌少将(※西郷隆盛の従兄弟で日清日露戦争を経て陸軍大臣)が精鋭8大隊を率いて、軍艦高雄丸、汽船玄海、九州、隅田、黄龍、敦賀、太平などの緒船に乗込み…鹿児島に到着、旧城内に入り、各所に哨兵を配りたり」  鹿児島に逆上陸した高島少将も大山少将も薩摩出身の軍人だった。生まれ育った故郷に、かつての同胞や親戚を討つために、軍を率いて鹿児島入りしたことになる。  虚を突かれた薩摩軍は、鹿児島の根拠地にはわずかな守備兵しか残しておらず反撃したが撃退される。  官軍は、旧城を制圧し、さらに城山はじめ市街の要所に防御陣地を構築する。

出典:西日本新聞社

筑紫新聞カルトクイズ11

 官軍として乗込んできたのは、薩摩出身の将軍たちだった。鹿児島の人々は、官軍をどのように迎えたのでしょう。 (1)一部に歓迎する市民がいて協力する人もいた (2)官軍の優勢を知っていて意外なことに大歓迎された (3)市民は市内からいなくなり誰も協力しなかった 答えは次回!『西郷どん』最期の戦い12 大河ドラマでは西南戦争を描くのか

『西郷どん』最期の戦い12 大河ドラマでは西南戦争を描くのか

出典:げこげこ大王28世

※この記事内容は公開日時点での情報です。

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