実際に起きた驚きの突破劇を紹介するテレビ番組「THE突破ファイル」(FBS福岡放送)。ファンファン福岡では番組の放送に合わせ、福岡で活躍中のタレントさんの「突破」エピソードを紹介しています。
第3回目はともに福岡県出身のお笑いコンビ「ブルーリバー」の川原豪介さん(37)と青木淳也さん(36)に話を伺いました。聞き手は今回も、FBS福岡放送「バリはやッ!ZIP!」でおなじみの森洸(もり・ひかる)アナウンサーです。
始まりは高校の文化祭
森 まずは、お2人の出会いからお笑いの道を目指したきっかけを教えていただけますか。 青木 高校の同級生で、高校3年生の文化祭のときにお笑いっぽいことをやったのが始まりですね。 川原 身内のノリなんで、絶対笑うじゃないですか。それで勘違いしちゃったんでしょうね。文化祭をきっかけに学校行事で何回かネタをやったりして。 青木 大学は別だったんですけど、大学1年のときに(漫才コンクールの)「M-1グランプリ(M-1)」が始まって「一緒にやろう」と。 川原 M-1の時期だけノリで出て、また次の年にM-1に出て、みたいな。 青木 大学卒業が近づいたころに、“なんでM-1の1回戦を勝ち上がっても大阪での2回戦で信じられないくらいスベるんだろう”と考えて。プロの人たちは年間たくさんのステージに出て「これだ!」というネタで挑む-。じゃあわれわれもなんかライブみたいなのをやるしかないな、と。それで、大学4年生の2月に単独ライブをやりました。 川原 友だちに「ライブするけん来て」って言うと、みんな「行くけど、金取ると? なんで友だちが悪ふざけするのに金払ってって行かないかんと?」って感じでした。 大学の終わりごろ(※川原さんの卒業は青木さんの2年後)からライブの規模を大きくしていって、面白素人みたいな感じで取材されたり、(福岡市・天神の)警固公園で路上ライブをしたりして、2007年にワタナベエンターテイメントのオーディションを受けて九州1期生として入りました。 青木 ありがたいですよね。楽しいと思ってやっていたことが仕事になっているのが。 川原 学生の楽しい感じで入っちゃってるから、入ってから苦労しましたけどね。初めのころは、毎週テレビに出てるのに月収2,300円で「どひゃー!」って。 森 仕事的にはどうだったんですか。 青木 お笑いに入ってから、しんどいなとか、いやだなとか、一切ないですね。新ネタを毎週2本くらい書いてたときは、相方はネタ帳に襲われる夢を見てたりして(笑)。そのときはしんどかったんじゃないかなと。 川原 畳くらいの大きさのネタ帳が追いかけてくる夢を見ました(笑)。ばさばさと追いかけてきて、挟まれるんじゃないかと・・・。
青木さんが病気で死の危機に
森 衝突や解散の危機などは、ありましたか? 川原 お笑いで衝突することはなかったですね。でも相方が死にかけたときは事実上、解散の危機でした。東京に行ってちょうど2年目の2016年3月ですね。 森 東京での当時の立ち位置は? 川原 32歳のときに東京に行きましたけど、ペーペーの若手ですよ。でも東京の若手芸人は困惑してましたね。「若手と同じところにいるのに、すごくベテランみたいなおじさんがいる」みたいな。 青木 先輩に呼ばれたらすぐ行けるように、家賃が高くてもなるべく先輩たちの家の近くに住んで。東京でバイトしなくていいように、福岡でお金をためてたんですけど、まぁ東京は家賃が高い! そんな中、ありがたいことに、東京の「PON!」という番組で、毎週いろんな人に突撃インタビューする仕事をいただいて、すごくいい経験になりました。 森 東京で病気になったときは、どんな状況だったんですか? 青木 仕事に向かっている途中に具合が悪くなって、昼の仕事は行ったんですけど、さすがにこのままだと夜の仕事は行けないかもとなって病院に行ったら、緊急手術になって・・・。 森 緊急手術と聞いたときはどうでしたか? 川原 マネージャーから聞いて「そんなにおおごと?」とは思いましたけど、それでも「応急処置的な感じかな」と思ってました。でも夜の仕事が終わって病院に行ったら、ドラマのシーンみたいに会社の会長や社長やマネージャー、青木のお母さんが来ていて、まだ手術中で-。医者から「死ぬかもしれないのでお母さんはいてください」と言われて、「え? うそ?」という感覚でしたね。
森 病名は何だったんですか。 青木 急性大動脈乖離です。 川原 心臓から足までの血管が裂けてる、と。命を助けるには両足を切るかもしれない、と。結局、手術は18時間かかりましたね。 でも仕事中でよかったです。24時間以内じゃないとほぼ死ぬみたいなことも聞きましたけど、家にいたら体が痛いくらいじゃ寝てたでしょうから。近かったからという理由で選んだ大病院に大動脈乖離のスペシャリストがいて、いろいろなラッキーが重なったんですよね。 森 手術が終わって意識が戻るまでは、どのくらいでしたか。 青木 1週間くらいですね。痛みなどを感じないように薬で眠らせてたのもあると思うんですけど。当時、野球の番組をやらせてもらってたんですけど、目覚めたら開幕3連戦が終わってて「うそやろ?」と。3月に手術して6月に退院して、療養のために福岡に戻りました。 東京だと体を張る仕事が多いので、まだ無理だなというのが山ほどあって。地元からゆっくり再スタートしよう、と。 僕は1秒でも早く仕事がしたいという思いしかなかったので、一切つらいとかはなくて、復活というゴールに向かっていけばよかったですけど、相方はいつ帰ってくるか分からないものを待ち続けることがつらくてしんどかったんじゃないかな、と思います。
森 川原さんは当時、どんな思いでしたか? 川原 謹慎とかちょっとした怪我だったら「いつ戻ってくるとや?」となったかもしれないですけど、一回死ぬかも、となったので「40歳になっても50歳になってもいいから、もう一回一緒に漫才できたらいいです、神様」って思ったんです。いつまでも待つからとりあえず1人で頑張る、と。そこから久々にバイトを始めました。 森 どんなバイトを? 川原 引っ越しと、とんこつラーメン店でのバイトですね。ラーメン店のバイトのときが一番つらかったですね。福岡で生まれ育ったのに、ベトナム人の従業員にとんこつラーメンのノウハウを教えられるという(笑) 青木 「バイトを始めた」と聞いたときは申し訳なくて・・・。 川原 とんこつラーメン店を選んで「しまった!」と思ったんですけど、福岡に住んでた人が結構来るんですよ。バイトしてるところで、「自分のことを知ってる」と言われるのはうれしくないんですよね。 相方が福岡に戻ってからも、僕は東京でライブに出たりオーディションに行ったりしてました。「東京で1人で頑張って知名度を上げて、相方が元気になって戻ってくる」っていうのが理想だったんですけど、東京の人はそもそもコンビでやっている状態も知らないので「普段は2人だけど1人でやってます」といっても「?」となるし、どっちつかずで太刀打ちできなかったので、もう一回福岡で再スタートしようということになりました。 森 リハビリの状況はいかがでしたか。 青木 最初は短い距離を歩くのも「こんなに?!」っていうくらいきつくて、座るのもきつくて-。ちょっとずつですね。ごはんも「これ、味ある?」みたいな減塩の料理を奥さん(当時は彼女)が毎日作ってくれて。体重が増えないように測って、朝は血圧も測り、と。
最大の危機を突破できた一番の理由は・・・
森 いろんな方の支えがあったんですね。 青木 感謝しかないですね。入院中もいろんな人がお見舞いに来てくれて。先輩や福岡の後輩、行きつけの居酒屋の大将や美容師さんも来てくれました。 森 今は、お酒は飲まれますか? 青木 全然ですね。付き合いも悪くなったんですけど、皆さん理解してくれるし、相方が全部代わりに行ってくれるんで。 川原 僕、あんまり社交的じゃなくて、相方は人付き合いがうまいので、「僕はブルーリバーの制作担当、相方は営業担当」って言ってたんですよ。でも皆さん温かいなと感じましたね。自ら東京に行って戻ってきてるのに、スタッフさん含めこんなに良くしてくれて本当に感謝です。 青木 街でロケをしていても、皆さん「体は大丈夫?」と言ってくれて。 森 今、再出発で頑張っていらっしゃると思うんですが、この先どんなことに挑戦したいですか? 青木 漫才がとにかくしたくて。芸歴10周年のときに病気しちゃって、10周年でやりたかったんですけど、どでかい単独ライブができなかったんで、もうちょっと体力が戻ったら単独ライブをやりたいですね。 川原 漫才は大きい声を出すので、始められたのはまだ今年の7月くらい。単独ライブは7、8本ネタをするので、単独ライブができたら完全復活かなって感じですね。福岡でスタッフさん、お客さんに見せられたらと思います。 森 改めてお伺いします。青木さんの病気という大きなピンチがあって、そこを乗り越えられた理由は何だったんでしょうか? 川原 ・・・医者のメスの技術。
青木 そりゃそうよ(笑)、お医者さんの腕はそう! でももっと他にあるでしょ!! 川原 それに限りますね。 森 ほんとですね。 青木 いやいや、「ほんとですね」じゃないんですよ、森さん。あるでしょ、「絆です」とか! なんかおしゃれにまとめなさいよ(笑)
でもほんとに、皆さんのおかげですね。待ってくれている人がいるというのと、相方がいてくれるというのと、1人じゃないというのが強いなと思いましたね、仕事においても家庭においても。 森 青木さんの病気があって今がある、と。今まさに再出発で頑張っていらっしゃるところなんですね。ありがとうございました。 ◆「THE突破ファイル」 次回の放送は11月22日(木) 午後7時~