九州大学と遊郭との間にあった微妙な関係とは…
■福岡にもあった遊郭 その起源は安土桃山時代までさかのぼるといわれている遊郭。江戸時代には江戸の吉原遊郭、大坂の新町遊郭、京都の島原遊郭が三大遊郭と呼ばれ大いに栄えていたこともあります。 もちろん博多の町にも遊郭はありました。今の博多区下呉服町周辺にあった「柳町遊郭」がそれです。貝原益軒の『筑前国続風土記』によると、遊郭の数は19軒、常時60~70人の遊女がいたと記されています。現在ではその痕跡を確認できるようなものはほとんどありませんが、電柱の案内看板などには「旧柳町」と記されています。 ■明治36年に開校した京都帝国大学福岡医科大学 さて、一方の九州大学。前身となる京都帝国大学福岡医科大学が開校したのは明治36年。場所は現在の九州大学病院のある場所です。 大学誘致には福岡だけでなく熊本や長崎も名乗りを上げており、熾烈な誘致合戦を繰り広げていました。ただ、福岡に誘致するとなった際、ネックとなったのが前述の「柳町遊郭」の存在です。なにせ誘致場所である馬出と柳町遊郭は目と鼻の先。学生たちが遊郭に出入りし勉学がおろそかになるのではないかという懸念が問題視されたそうです。 結果、柳町遊郭は明治44年に新柳町遊郭(現在の中央区清川)へと移転。昭和33年まで営業を続けていました。 ■実は学生よりも教授が心配だった! とはいうものの、今も昔も学生は貧乏というのが相場。遊郭に足しげく通うことができる学生など皆無でしょう。 そう、「学生が通うと困る」というのは表向きの理由であり、文部省(当時)の役人は本音では「教授が通うと困る」と考えていたんじゃないでしょうか。 帝国大学の教授ともあろうものが人目をはばからず堂々と遊郭に通うのはまかりならんという意見はごもっとも。であれば物理的に遊郭を遠ざけてしまえということです。福岡の遊郭移転にはこのような“本音と建て前”があったのかもしれませんね。