冨安健洋選手の原点を訪ねてみた ☆★久留仁譲二の小市民だより★☆ サッカーW杯日本代表編(その3)

 決勝でPK戦にまでもつれ込む激闘を制したアルゼンチンが優勝したサッカーワールドカップ・カタール大会。日本代表は、3位になったクロアチアにやはりPKで敗れましたが、総合では9位になったそうで、なんのかの言ってすごい偉業だと思います。決勝戦を見た人はわかるでしょうが、MVPのメッシや得点王のエムバペだけじゃなく、人間業と思えぬ、技量、スピード、肉体、精神力の持ち主たちがひしめいておりました。

 日本代表がベスト4以上に残るには、そんな野球でいえば大谷選手クラスの”化け物”が何人か必要だと痛感しました。そして、「PKも技術」だということも痛感しました。メッシ、エムバペと同等の技術とメンタルを持った選手なら、ほぼ100%PK決めるでしょう。

 さて、地元福岡出身の日本代表DF・冨安健洋選手はケガの影響で出場時間が限られましたが、全試合出場して活躍しました。吉田麻也主将が「僕なんかよりレベルが格段に上」と言ったという冨安選手は、わが家から2キロほどの小学校のグランドで練習する「三筑キッカーズ」というサッカークラブの出身です。買い物がてら自転車で様子を見に行ってみました。

 自転車で10分ちょい、福岡市立三筑小学校が練習グランドです。ここが正門です。

 きょうび私みたいな部外者は学校には入れません。事務室で受け付けしようにも、「サッカークラブを見に来ました」では理由にならんでしょう。外から遠まきに見させていただきましょう。

 サッカーの練習は決まった曜日の夕方にやってるようです。サッカー少年少女は全員集合の前で、色んな子供たちが遊んでいます。

 うちの子どもたちも昔、隣の南区のサッカークラブに入っていて、三筑キッカーズともちょいちょい対戦していましたが、この小学校に見に来た記憶はないような気がします。うちの校区の小学校はその後天然芝が植えられたんですが、残念ながらサッカークラブはなくなっちゃいました。

 ぼちぼち子どもたちが集まって来て、指導者の方の周りに集まっています。昔を思い出します。20年近く前ですが、その頃は誰でも自由に小中学校に出入りしてました。今思うと、のん気な時代だったですね。

 冨安選手もここで練習していたわけです。

 よくテレビで有名選手の子ども時代の試合の映像でドリブルで端から端まで一人で持ち上がってシュートを決めるシーンなんてのが流れますが、冨安選手の場合、昔から派手ではない堅実なプレーを選択していた、という話もこれまたテレビで見ました。子どもの頃から守備に向いた性格だったんでしょうか。

 あまり長居して、アブナイ人と思われたらいけないので、退散して近くを散策してみます。すぐ近くに三筑中学校がありました。ここは見覚えがあります。子どものサッカーの試合は小学校ではなくて、中学校でやってましたね。何チームか集まって同時に複数の試合をやったりしていたので、広いグランドが必要だったのかもしれません。

 もちろん冨安選手は三筑小学校、中学校の出身です。

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 これまたすぐ近くにかなり大きめの公園がありました。看板を見ると、「諸岡中央公園」と書いてあります。証拠はありませんが、おそらく冨安選手は練習の無い日などはこの公園でもリフティングやドリブルの練習をしたんじゃないでしょうか。でも、「フェンスのボールをぶつけるのは厳禁」なので、思いっきり蹴ることは出来なかったかもしれません。子どもでも大人顔負けのキック力だったでしょうし。

 そろそろ家に帰ろうと思ってたら、有名なイトマンスイミングスクールがありました。ウィキペディアに「水泳をやっていた姉二人の影響で水泳を始めるつもりだったが、当時ケガで断念した」と書いてあるので、もしかしたらここに通う予定だったのかもです。日本サッカー界にとっては、そのときのケガが幸いした、と言えます。

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 なんかとりとめなく、深い掘り下げも無い、散歩の話になっちゃいましたが、いつか冨安選手が中学時代所属したアビスパ福岡ジュニアユースの話も書きたいと思います。

※この記事内容は公開日時点での情報です。

著者情報

米国の本家と同い年のシニアブロガー。毎晩長いときは30分に及ぶ歯磨きを欠かさない。最近覚えたメルカリへの出品にはまっている。
17年乗った作業用の軽トラックをカッコいいカーキ色の新車に買い替えた。

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