「令和」の始まりに、力づけられている老舗菓子店がある。福岡市博多区に本店を置く如水庵。主力商品の「筑紫もち」は発売から42年にわたり、万葉集を前面に掲げてPRしてきたが、「万葉の詩(うた)がきこえる…」のうたい文句に対し「分かりにくい」という反応もあった。万葉集が新元号の典拠となり、森恍次郎社長(71)は「ようやく私の思いを理解してもらえそうな時代になった」と張り切っている。
「筑紫もち」は、1977年4月に販売開始。歯切れが良く粘りのあるもちに、こだわりのきな粉や黒蜜を合わせ、博多を代表する和菓子の一つとして定着している。 代々続く菓子店に生まれた森社長は父が急逝したため、九州大を卒業した70年に22歳で家業を継いだ。5年後の山陽新幹線・岡山―博多間の延伸を見据え、母・文絵さんと新商品の開発に着手し、延伸開業から2年遅れで筑紫もちを世に送り出した。
「お菓子は郷土の文化」と考える森社長。筑紫もちのコンセプトとして歴史や文化を研究し、「万葉集に行き着いた」という。「福岡が代表的な舞台となる万葉集を前面に掲げ、後世に残るお菓子に育てたい」との思いを込めた。筑紫もちは一つずつを和紙で包み、外箱や包装紙に万葉集「梅花の歌三十二首」のうち、文絵さんが選んだ二首を記している。 発売当初は、テレビCMで万葉集の魅力を発信しようとしたところ、「視聴者に伝わらない。食材のこだわりを宣伝した方がいい」と広告会社から指摘も受けた。それでも万葉集にこだわり続けた。そして、2019年。令和は、三十二首の序文が出典となった。森社長は「うれしい。母もきっと喜んでいる」と目を細める。文絵さんは1992年に66歳で他界した。 梅花の歌は、730年に九州・大宰府の大伴旅人邸であった「梅花の宴」で詠まれた。森社長はこの7月以降、筑紫もちを箱の内側で三つずつ包む包装材を順次、「梅」にちなんだ透明なフィルムに変えていく。 実はこのデザインは令和発表の3カ月前の今年1月時点で決定していた。相次ぐ“追い風”に、森社長は「梅花の宴が開かれた穏やかな日のような平和を願って、お菓子を作っていきたい」と決意を新たにしている。