5月12日(金)公開「TAR」

 世界最高峰のオーケストラの一つであるドイツのベルリン・フィルで、女性として初めて首席指揮者に任命されたリディア・ター。彼女は天才的な能力とそれを上回る努力、類稀なるプロデュース力で、自身を輝けるブランドとして作り上げることに成功する。今や作曲家としても、圧倒的な地位を手にしたターだったが、マーラーの交響曲第 5番の演奏と録音のプレッシャーと、 新曲の創作に苦しんでいた。そんな時、かつてターが指導した若手指揮者の訃報が入り、ある疑惑をかけられたターは、追いつめられていく──

© 2022 FOCUS FEATURES LLC.
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アカデミー賞作品賞他6部門にノミネートされた話題作!

ベルリン・フィル初の女性マエストロ、リディア・ターを主人公に芸術と狂気を描いた話題作「TAR」。主人公リディア・ターを演じるケイト・ブランシェットの熱演と、クラシックの世界をストイックに描いたストーリーにリディア・ターを実在の人物と思ってしまう観客が多くいたとか・・(実際はフィクションでリディア・ターは現実にはいません。)

実際現実世界でも有名指揮者がセクハラで訴えられていたりしていることもありますが、プロでなくてもクラシックの世界に一瞬でも身をおいたことがある人は、オーケストラを率いる指揮者としてのリディアの苦悩や、この映画が描くリアルすぎる世界に怖さを感じるかもしれません。私もプロではないけど子どもの頃からピアノを弾き、短大の音楽科を卒業した身としてはクラシックのあのピンと張り詰めた空気というか雰囲気がそのまま映画になっているようで、魅入ってしまいました。

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この映画は、クラシック界の小ネタなども多く仕込んであるのですが、クラシックに関する予備知識がなくても十分楽しめる映画です。私はどちらかというとクラシックに限らず、“なにかに一時期だけでもストイックに打ち込んだ経験がある人”なら、この映画のリアルな空気を感じ取ることができるんじゃないかと思っています。

私は人生の中で音大受験を控えていた高校生の時が一番ピアノが上手かっただろうと思うのですが(笑)、1日8時間ピアノを弾き、弾いても弾いても思うように弾けない自分に腹が立って、苦しくて、でもとにかく弾いて、1曲仕上げたときの達成感は、それが音楽でもスポーツでも仕事でもなんでも、1ミリも自分に妥協を許さずにストイックに自分を追い込む経験者だけが持つことができる宝物なのかもしれないと思っています。

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この映画はサスペンスなのか?ホラーなのか?

「TAR」という映画をジャンルで紹介するときに、サスペンスやホラーといったジャンルに当てはめる人もいるのですが、私はどちらにも当てはまらないと思うんですよ。前述した通り、クラシックのストイックさというかそのリアルな雰囲気が、非日常というかちょっとおどろおどろしい雰囲気には近いのかなと思います。

ただ、クラシックの世界ってそんな怖い世界じゃないんですよ。でも非日常なのは確かです。日常では作れない環境をつくり、音楽を最大限楽しむ、芸術の世界だと私は思っています。そもそも、クラシックのコンサートって音を立ててはいけないし、咳払いもしてはいけないし、皆でかたずを飲んでピアニストやオーケストラを待つじゃないですか。

私はあれって、“静寂”という非日常空間をお金を払って買ってるんだと思ってます。日常では生活音は必ず聞こえます。車の音、なにかの機械が動く音、鳥の音、風の音、それらをなくした“静寂”をつくり、1音の美しさを感じるのがクラシックのコンサートだと思っっています。ちなみに個人的には、はじまりの1音を聞くのももちろんなんですが、最後の音が消えるまでを感じられるのが“静寂”の一番の役割だと思っています。

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余談ですが、私は個人的にものすごくスター・ウォーズが好きで、ジョン・ウィリアムズの楽曲もどれも好きなんですが“ジョン・ウィリアムズが指揮するスターウォーズ曲”でないと、聞いていて気持ち悪いぐらい好きなんです!クラシックって、ピアニストによって同じ曲でもいろんな解釈があって、弾き方もテンポも変わるんですが、それはオーケストラでももちろん同じなのです。

よく映画音楽集などのオムニバスアルバムなどに収録されているスター・ウォーズの曲は違うオーケストラや指揮者で演奏されたものが収録されていたりするのですが、テンポが遅かったり曲の盛り上がりが感じられなかったりと、とにかく本家本元の指揮と演奏じゃないと無理!!と思っていたのに、ズービン・メータというとても有名な指揮者が演奏したスター・ウォーズのテーマを聞いた時に、全然気持ち悪さがなく、しかも演奏も違うのに高揚感を与えてくれる、本物の指揮者のすごさを知りました。(クラシック通の人からすると、何を今更という話かもしれませんけどね・笑)

様々な解釈が生まれるであろうラストが意味するものは?

映画の話じゃなくて散々クラシックの話しちゃってるので映画の話に戻すと、この映画は主人公のTARが権力と名声を持ったことによって、何もかも自分の思い通りになると勘違いをし、ある事件によっていとも簡単に権力と名声を失うという話ではあるんですけど、この人根本的に何も変わってないんですよね。音楽に対する思いは揺るぎないというか、全く変わらない。

だからこそ、すべてを失っても音楽に対する姿勢とやっていることは全く変らず、国やオーケストラや演奏する曲目など、どんなに環境が変わっても、音楽に向き合い、指揮をし、作曲するという生き方は変わらないのです。そして、彼女がラストシーンで演奏するのはゲーム音楽なのですが、それはその昔映画音楽がバカにされて、音楽家や作曲家の中から下に見られていた時代と同じなのかも。

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今年「モリコーネ 映画が恋した音楽家」という映画がありましたが、いまや映画音楽はひとつの音楽ジャンルとして確立し、映画音楽の作曲家を下に見る人も少なくなったと思います。ゲーム音楽も同じじゃないのかなと思うのです。ゲーム機の進化と共に、8bitサウンドと呼ばれるゲーム音楽から現在は壮大なオーケストラ曲がゲーム音楽として世界中の人たちを魅了しています。日本ではオリンピックの入場曲にまで。(そもそもドラゴンクエスト時代にすぎやまこういち氏はゲーム本体では聞けないのにオーケストラ曲を作って演奏してました。)

権力と名声を失ったリディアが、最後に演奏していたのがゲーム音楽なのはこの映画が彼女の未来につながっているからこその選曲なのではと思ったら、サスペンスともホラーとも言われてしまうこの映画の雰囲気から開放された気分になったような気がしました。ケイト・ブランシェットの怪演に圧倒され、約2時間半クラシック界に身を置く天才指揮者が生きる人生の一部分を体験できる作品です。この感動はぜひ映画館で!

「TAR/ター」

 監督:トッド・フィールド
出演:ケイト・ブランシェット、ノエミ・メルラン、ニーナ・ホス、ソフィー・カウアー、アラン・コーデュナー、ジュリアン・グローヴァー、マーク・ストロング 他
公開劇場:TOHOシネマズららぽーと福岡ほか 全国ロードショー
 https://gaga.ne.jp/TAR/

※この記事内容は公開日時点での情報です。

著者情報

長崎県壱岐出身。福岡女子短期大学音楽科卒。卒業後ラジオ局の番組制作に関わる。その後転職し、福岡の数々の情報誌とWEBメディアの編集・ライターを勤める。編集では映画紹介やコラム、インタビューを経験。2015 年よりフリーの広報、ライターとして主に映画、グルメ、旅行コラムを執筆中。

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