今から10年前。冬になると娘と息子は、雪遊びで大はしゃぎ、そりにスキーに雪合戦、雪だるま…。でもあの雪灯ろう作りだけは、子ども達は神妙な面持ちで、一生懸命に作ったことを思い出します。
震災に遭って
2011年3月11日、忘れもしないあの日、突然大きな地震に見舞われました。 恐ろしい揺れに急いで玄関のドアを開けると、家の軽自動車が前後に大きく揺れていました。私達の住む青森県は、比較的大きな被害は無かったものの、その日から数日間停電となったのです。 3月とは言えまだまだ寒い時期でした。その日の夕方、スーパーは閉まり、やっと着いたコンビニはたくさんの人でごった返していました。 すでに店内は真っ暗で、計算機で必死に会計している店員さんの周りを、みんなのケータイ電話の灯りで明るくしたのを覚えています。夜になって、ラジオで未曽有の大震災が東北を襲ったことを知り、私達家族は身震いしました。 その後しばらくはスーパーやガソリンスタンドは制限が設けられ、品物を買うために列に並ぶ日々が続いたのです。買えない品物もたくさんありました。テレビで連日映る東北の被害の様子には、言葉も出ませんでした。
慰霊のともし火を見て
その年は、震災で亡くなった方々のために、全国のあちこちで慰霊のキャンドルがたくさん灯されました。 所用で奈良県へ行った時のことです。訪れた平城京旧跡のイベントで、太極殿の前の無数のキャンドルを目の当たりにし、自然に涙が出てきて、周りの人と一緒に手を合わせました。自分が生きていることにもっと感謝したい、その時強く思ったのを覚えています。
子どもたちと雪灯ろうを作る
以前幼い娘たちのために、たくさんの雪玉を交互に重ねドーム型の雪灯ろうを作り、中にろうそくを灯したことがありました。震災後の冬、その雪灯ろうを娘と息子と一緒に作ってみることにしたのです。 家の前に積まれた雪がちょうど横長の台のようになっていたので、その上に雪灯ろうを5個作って並べることに。子どもたちは、せっせと雪玉を丸めていきました。 一つの雪灯ろうに、約15個の雪玉が必要で、しかも雪玉が割れないように硬くする作業にも時間がかかります。ようやくドーム型雪灯ろうが5個並び、中に入れたろうそくに火を点けました。雪玉と雪玉の間から漏れる光が全体をぼおっと包み込み、幻想的なその姿にしばし私たちは呆気にとられていました。 それから震災で亡くなった人を思いながら、3人で手を合わせました。2011年当時、娘は10歳、息子は8歳。他県の被災地の凄惨さや、慰霊のために手を合わせる、ということをうまくのみ込めていないようでした。 「何もできないけど、みんなの分も頑張っていこうね」と私が言うと、子ども2人は雪灯ろうを見つめながら「うん」とうなずきました。近所の人も見てくれたようで、「雪灯ろう見たよ、きれいだったね」と言ってくれました。 3日ほど夜の短い時間でしたがろうそくを灯すことができました。その後、暖気で雪灯ろうはあっという間に溶けて崩れてしまいました。
雪灯ろう、今年再び
それから3年間、毎年冬になると子ども達と雪灯ろうを作りました。風が強くてろうそくに火が点かない日や、吹雪の次の日は雪灯ろうが半壊していたこともありました。 今年は東日本大震災から10年経ちます。娘と息子はもう成人、早いものです。 節目にあの雪灯ろうを作ってみようと思います。震災のことは生涯忘れることはできません。今年は少し大きめのドーム型雪灯ろうにしようと思っています。 (ファンファン福岡公式ライター/ぱぴんぱ)