町と、人と。つながりが次代を紡ぐ。ひびしん会長 野村廣美氏インタビュー。 【中編:次の100年を見据えた想い】<PR>

2024年、100周年を迎える福岡ひびき信用金庫。
新人時代から独自の手法でその成長に貢献してきた野村廣美会長に、その半生と仕事への向き合い方を伺ったインタビュー。
2回目の今回は、<次の100年を見据えた想い>。
地域や人との絆を次の世代へ、仕事を通して紡ぐ姿勢をお伺いしました。

終始やわらかな笑顔でお話しくださった野村廣美会長
目次

『路を知り、人を知り、町を知る』

前篇では、道なき道をくまなく辿って地域と顧客の信頼を得ていく姿勢を伺っていました。
足繁く町へ通うことで、お客様との関係性がより深くなると?

何度も通えば、地域を知るスペシャリストのように、お客様からも重宝していただけるんです。
特に、私が目をつけていたのは不動産です。田んぼや空き地を全部チェックして、謄本を取り、買いたいというお客さんに、手数料ゼロでつなぐんです。
いろんな人が紹介を要望されるようになると、そこから定期や融資の話が絡むようになり、お互いに有益な案件に育ち、融資が伸びたというのは覚えてます。

すんなりいく町ばかりじゃないですよね?

木屋瀬という町に支店が新設された時に、支店長を拝命しました。
その町は、タイミング悪く大型スーパーが出店してきた頃で、最初は木屋瀬の商店街の人たちに嫌がられました。銀行は直方信用金庫がありましたし、商店街があるのになぜスーパーが来るのかと、あいまって二大反対運動が起こった渦中でした。

それでまずはここの商工団体に入るべきだと思い、会長さんのところに行ったんです。そしたら、100人以上参加する総会で挨拶させてもらえることになったので、「この地域の発展のために尽くして、もっといい町にしていきたい。直方信用金庫さんと一緒にやらせてください」と熱弁しました。

すぐわかってもらえました?

そこからガイドをつけて、百何十年も経った家が立ち並ぶ筑前無宿を回ったんです。細くて長い、町屋造りの脇道を入っていくと、いろんな人と会って、いろんな話が聞けるんです。するとお困りごとの相談にも乗れて、喜ばれますよね。
自分でも「ああ、こういう町なんだな」とわかってくるんですよ。

それで「路を知り、人を知り、町を知る」という言葉を言うようになりました。

自分で感じる、みつける教育法

部下の方々には、野村会長の仕事の極意をどんな風に伝えていかれたんですか?

企業訪問は必ず一緒に同行させていました。私が先方の社長とどういう話をして、どう前に進めていくのか、そういうイロハを同行のなかですべて教えていましたね。

OJTで伝わりますか?

もちろん、自分でいろんな情報を集めろと指導もしていましたよ。町を知る方法。
そして「この町では住宅ローンに力を入れるよ」「この町は事業所開拓を徹底するよ」とか、戦略を練って実践するのが私のやり方でした。

同行でも、訪問が終わったら車に戻って必ず、「どんな話をしていたか?」「この社長はどういうニーズを持っているか」など、部下に質問するんです。それを聞く彼自身が、私と取引先の方との話からどういう情報を得ているのか、そこが肝心で、それが勉強ですよね。

私自身、支店に配属されて2年か3年ほどの任期です。その間にできることは何かを、ひたすら考えるんです。そうすると、やっぱりすぐ町の情報を掴まなければいけないということになります。どこに赴任しても、ずっと町を回ってきました。伝えることも、それが一番大事。町を、お客様を知り、相談相手になれと言ってます。

血尿と闘い成功させた「飛鳥クルーズ定期預金」

本部への異動はどのタイミングで?

黒崎支店へ異動して1年で本部に異動するようにと言われました。そうしたら異動するなり、いきなり業務部長だと言われて驚きました。
今までやったことのない集大成をやれと言われてびっくりしましたね。52歳でした。

役職になってのお仕事ぶりはどうだったんですか?

大変でしたよ。というのも、入庫2ヶ月目で決算日に休んでお叱りを受けた、あの上司(本部では理事長)が立ちはだかってたんです。
私の日報を見て、同じところに行かれ、後日「あの話はどうなった?こっちはどうなった?」って聞かれるんです。それが辛くて、血尿になりました。
それでも毎回宿題が常に10個くらい溜まっていて、こちらがさすがに忘れてるだろうと思っていることも、パソコンを出して、「あれが終わってない、これが終わってない」と言ってくるんです。

それは本当に災難でしたね。

でもね、理事長からはいろいろなことを教わりましたよ。いつも叱られてましたけどね。また、反抗もだいぶしましたが。

今思えば、私が悪かったなぁと思うのが、法人開拓の件とかですかね。
こういう事をやりたいと稟議書を持って行くと、早すぎると言われたりして、いつまでも書類の山の中に置かれたままになるんです。それがだんだん、だんだん下がっていって、気づけば一番下。
これはまずいと焦りましたね。それで、よくないとは思ったんですが、こっそり抜いて、会長に「これを役員会で練っていただけませんか?」と、直談判しに持って行ったんです。翌日、それは通ったんですけど、理事長にしてみれば「なんて事するんだ!」ですよね。

地元企業の利益と発展のため始めた経営大学は33期目、会員600名を誇る

厳しい中での処世術とはいえ、それは、なかなかできませんね。

その極め付けが「飛鳥クルーズ定期」の時です。
2003年に、地域の信金再編で、5庫合併した時に、たまたま『飛鳥』ってクルーズ船から電話があったので、「合併記念飛鳥クルーズ定期預金」というものを作ろうと発案しました。

さらに合併記念祝賀会には豪華客船の『飛鳥』も呼んで、お客さんを乗せて、その中で祝賀会をやろうと考えたんですが、理事長は「いくらかかるんだ? 万一、失敗したら?」と言うんです。
 
こっちは計算して勝算があったので、「1億6000万くらいです、大丈夫です」と言ったんですが、「そんなのわかるか、もしダメだったらどうするんだ?」と言われ、「退職金で払います」と。「そんなに出るか」とポーンと蹴られました。
それもずっと止まっていたので、また会長に「合併1周年で絶対やりましょう!」って言って、実現させました。

結局、飛鳥クルーズは3回やりましたね。信用金庫を集めて、みんなで九州の信用金庫の元気の良さをアピールしようじゃないかと。最初の合併1周年で屋久島、その後、金沢の旅と九州1周の旅。今4回目を画策しています。来年100周年ですから、周年に絡めてやれればいいですけれどね。

前理事長から受け取ったバトン、理事長就任

理事長になられたのは、おいくつくらいの頃なんですか?

本部に来て2年経って役員になり、その後もいろいろ役職を経験して、最後に理事長。本部に来て10年、62歳で理事長になりました。

当時の理事長が会長になられて、野村さんが理事長に?

その予定だったんですけど、理事長が亡くなられたんです。当時の会長が勇退し、理事長が会長になるタイミングで。
あんなに反感した理事長でしたけれど、私を理事長に推してくれたらしいんです。嬉しかったですね。

思い出話には顔が曇られる場面も。表情にお人柄が滲む

お話にはなれたんですか?

5月の連休中、総務部長から「(連休中にも亡くなる可能性があるから)見舞いには絶対行くな」と言われたんですけれど、最後にどうしても理事長のお顔を見て、もう一度話したいと思って、部長を連れて会いに行きました。

お休みになっていたので、1時間以上待ったんですが、部屋へ入ったらいきなり「あれはどうなったか、これはどうだった」と話し始められて。奥さんも「ずっと、亡くなる寸前のような容態だったのに」ってびっくりされていたくらいです。
私の報告にも「そうかそうか」と言って、元気そうだったので、安心して帰りました。

私はもう大丈夫だと思ってますから、翌々日、家族で久留米に向かってたんです。すると基山あたりで電話が鳴って、「今亡くなりました」と。それが最期でした。

理事長のお仕事は、引き継ぎなど、大丈夫だったんですか?

それは、もう毎日毎日大変でした。
会長も勇退の予定をそのままお前のために居てやろうとおっしゃってくださり、理事長の気持ちも嬉しかったので応えないとと思って。
外のことは会長が、うちのことは私がという風に決めて、とにかく2年間だけ一生懸命やろうと思っていたんです。そうしたら、ずっといてくれるのかと思っていた会長が、「俺の人生も残り少ないから、1年でやめさせてくれ」と言われて、困りましたが。
結局、私は理事長と会長の仕事を7年間、2足の草鞋でやりました。

でも今考えたら、楽しかったですね。

ひびしんの強みを次の100年まで 

来年100周年ですが、特にひびしんさんならではの良さとか特長ってどういったところだと思われますか?

一番は、やっぱり人を大切にする組織だと思います。職員を大切にしてというのがまず一番でしょう。
それと、やっぱり社会性を重んじること。さらには、変化に対応しようという気質。

以上の3要素は長寿企業に必要と言われるものですけれど、それはやっぱり、ずっと持ち続けていたいなという風に思っていますね。

近ごろ復活したという、ひびしんの「大運動会」。社員の子どもたちと。

信用金庫に入られて50年。非常に長いと思うんですが、他にもそういう方はいらっしゃるんですか?

信用金庫の理事長や会長は息の長い方が多いですよ。任期が長くなるのは必然ですね。信用金庫は地域とのつながりや交流、そういう人と人のつながりが大切ですから、そういう人が簡単に5、6年でいなくなってもらっては困るんです。

地域の発展こそが我々の発展、そこが銀行と違うところです。地域が疲弊しないよう、しっかりと守っていかないといけない。それが信条です。

もともとの理念である相互扶助の精神が今でも宿っていて、それが発揮されているというのは、いろんな金融形態がありますけれども、おそらく信用金庫くらいしかないと思いますね。

全国の信用金庫が、そんな風に頑張っていますから、信用金庫はいつまでも生き残っていくんだろうと、私は思っています。

<次回は、「今こそ日本を、社会を支える信用金庫へ」です。お楽しみに!>

著者情報

福岡のベンチャー企業「ラシン株式会社」が運営しています。福岡の中小企業、個人事業主さんの紹介を行なっています。

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