義母はバレーボールの強豪校からスカウトされ、スポーツ特待生になったほどのスポーツウーマン。地元の少年団のバレーボール部のコーチを引き受け、自身も当時68歳にしてママさんバレーボールチームに所属していたのです。「元気で何より、ケガだけはしないでね」と私は遠くから見守っていたのですが、ママさんバレーに駆り出され、追い詰められる事態になるのです…。
運動音痴の私を襲った悲劇
まだ新婚だったある日、家事を一通り終えてひと休みしていると、義母から
「これから遊びに来ない?」と電話がありました。
楽しく談笑し、そろそろお暇しようかしらと思っていると… 義母はおもむろにジャージと運動靴を差し出し
「これに着替えて」と言うのです。唖然としていと、義母は
「これからバレーボールの練習があるの。一緒にやろう!」と微笑みかけました。
「無理ですよ! 私、運動音痴でご迷惑かけちゃいますから」と必死に断るも、最後は押し切られて体育館に連れていかれました。
恐怖のママさんバレー
体育館では、既に数人のメンバーが練習していましたが、最年長キャプテンの義母を見かけるとすぐに集合。義母は
「練習を始める前に、今日から新メンバーが入るので紹介します。嫁の〇〇です」と言い出しました! ビックリしている私に一気に注目が集まります。引くに引けず
「初心者ですがよろしくお願いします」と咄嗟に言ってしまいました。
ママさんバレーは9人制、チームのメンバーは10人でした。仕事をしている人から子育て中のママまで色々で、メンバーが揃わず大会を棄権することもあったとか…。そこで白羽の矢が立ったのが、私だったのです。
それから毎週水曜日、修行のように辛いママさんバレーの練習が始まりました。メンバーは、ほぼ経験者で軽やかにサーブやスパイクを決めます。一方私は、レシーブをすればボールが後ろに飛んでいき、サーブはネットに引っかかり… 義母も驚くほどの下手さ。
そこでチーム練習の30分前には体育館に入り、義母からマンツーマンの特訓を受けることに。まずはサーブ練習、続いてレシーブ練習です。腕には内出血の跡ができ、楽しいの「た」の字もなく、ボールを持つ義母が鬼に見える時間でした。
初出場の大会の結果は?
3カ月経った頃、地区大会が開催されました。
大会当日、集まったメンバーは私も含めて10人。もちろん私はベンチを温め、応援に徹していました。ところが2試合目の途中、メンバーの1人が足首を痛めてしまい、まさかのメンバーチェンジになってしまったのです。
私の下手さは、すぐに相手チームにバレてしまい、集中攻撃を受けて大量失点…。他のメンバーは
「ドンマイ」と励ましてくれるのですが、義母の目は笑っていませんでした。
私は、ひたすらボールが飛んでこないように願いながらコートの端に立つのが精一杯。試合には何とか勝利しましたが、試合後の私は放心状態でした。
ベンチでうなだれる私を見て、義母は
「嫁ちゃんは、ボールが飛んでくるとサッとよけて、バレーボールというよりはドッチボールが得意みたいね。もう誘わないから安心して!」とあきれ顔。初戦にして引退試合となりました。
断る勇気も必要
その後、私は裏方に徹することにしました。義母が引退するまでの2年間、チームのマネージャーを務めメンバーと仲良く交流しました。
飲み会の度に、“試合中にボールを避けまくった伝説の人”とネタにされたのも今では良い思い出です。
「できないものは、できない」と断る勇気も必要だなと改めて思いました。
(ファンファン福岡公式ライター / みっちー)